2016年5月23日月曜日

(震災レポート36)

(震災レポート36)
 震災レポート・5年後編(2)―[世界状況論 ②]


・本章のテーマは、世界史上の民族問題とナショナリズムを考慮しながら、これからの国家のゆくえを展望すること。→ 民族問題に効率的にアプローチするためには、中東欧とロシア帝国に注目すること。なぜなら、民族という概念が根づいたのは、まずは中東欧だったから。そして、民族問題の複雑さを理解するにはロシア帝国を取り上げるのが適切と考えるから。…現代日本のナショナリズムを考えるためにも、世界史の教養は必須なのだ。(佐藤優)



『世界史の極意』
  佐藤優(NHK出版新書)
    2015.1.10(2015.2.25 5刷)
 ――[中編]



【2章】民族問題を読み解く極意
  ――「ナショナリズム」を歴史的にとらえる


(1)民族問題はいかにして生じたのか


○中世末期の西欧と中東欧の違い

・中世のヨーロッパでは、教会と社会が一体化していた。→ だから中世の人間には、近代人のような民族意識はない。…中世のヨーロッパ人にとっては、人間であることはキリスト教徒であることとイコールだった。(※う~ん、ヨーロッパの歴史におけるキリスト教の重たさ、というのは、ちょっと日本人には実感的に理解不能か…)
・西欧では、比較的早い段階で、国家というまとまりが成立していった。…英仏の場合、1339~1453年の百年戦争後に中央集権化が進んで、領土的なまとまりを形成していく(詳細はP95~96)。イベリア半島も、国のまとまりはけっこう早い。→ キリスト教徒がイスラムを追い出すレコンキスタ(国土回復運動)とともに、1143年にポルトガル王国ができ、1479年にはスペイン王国が成立する。
・つまり、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルといった西欧では、比較的早い段階で主権国家の条件が整備されていった。←→ それに比べて、中東欧を含む15世紀末の神聖ローマ帝国(ドイツ)は、混沌としている。…その範囲は、オランダ、ベルギー、フランス東部、スイス、オーストリア、チェコなどのかなりの地域まで含むが、実態は「名ばかり国家」だった。→ 皇帝はいても権力はなく、帝国の中に数百もの領邦が分立しているような状態。(※日本の戦国時代のようなイメージか…)


○16世紀に始まるハプスブルク帝国の興隆

・絶対主義の時代が始まる16世紀は、ハプスブルク家が世界史の中心を担う時代。…ハプスブルク家は、もともとはスイス北東部の弱小貴族だった。→ ところが1273年に、瓢箪から駒のような形で、ハプスブルク家の総領ルドルフが、神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれる(ローマ教皇から冠を授与されて皇帝になる…詳細はP97~98)。…ハプスブルク家の得意技は、結婚政策(※政略結婚はどこも同じか…)。→ その全盛期は、(イギリスとフランスを除いた)西ヨーロッパの大半を手に入れるほどの隆盛を極めた。(詳細はP98~99)


○三十年戦争の二つの側面

・このハプスブルク家がヨーロッパの主導権を握っていた時代に起こったのが、ルターの宗教改革。…16世紀、当時のローマ・カトリック教会の教皇が贖宥状(罪の償いを軽減する証明書)を販売した(※地獄の沙汰も金次第!)のに対して、ドイツのマルティン・ルターは、贖宥状を買うだけで神の罰が解消されるはずがないと批判し、聖書を拠りどころにした信仰の重要性を説く。→ このルターに始まったカトリック教会への批判運動は、ヨーロッパ全体をカトリックとプロテスタントに塗り分け、内戦・戦争に発展していった。
・そのピークとなる戦争が、神聖ローマ帝国を舞台として1618年に始まった三十年戦争(詳細はP100)。…つまり三十年戦争は、カトリック対プロテスタントという宗教戦争と、ハプスブルク家対フランス・ブルボン家の対立という二つの側面を持った国際戦争として拡大していった。→ この三十年戦争の後、1648年に、終戦処理のための講和会議で締結された条約が、ウェストファリア条約。


○ウェストファリア条約の意義

・このウェストファリア条約によって、宗教戦争は終結し、神聖ローマ帝国内の各領邦国家も含めて、それぞれの国が内政権と外交権を有する主権国家として認められた。→ つまり、ウェストファリア条約こそが、「主権国家によって構成されるヨーロッパ」という世界秩序をつくりあげ、戦争をもたらしたカトリックとプロテスタントの長年にわたる対立に終止符を打ったことで、まさに中世と近代を画する結節点となった(ヨーロッパの主権国家体制の確立)。
・序章で、「戦争の時代」は今なお続いていると述べた。→(さらにマクロな視点に立つなら)私たちは今なお、ウェストファリア条約で形成された近代システム(主権国家体制による世界秩序)の延長を生きていると言えるのだ。
・(ウェストファリア条約~フランス革命の時代の、ヨーロッパの国際政治史)…激しい領土変更を伴う戦争が相次いだ。…ドイツは、(領邦国家の一つであった)プロイセンが力をつけ、領土を拡大。…オーストリア・ハプスブルク家は、ウィーンに迫るオスマントルコとの戦いに勝利し、1699年にハンガリーを奪う。…ポーランドは、18世紀後半に、隣接していたロシア、プロイセン、オーストリアの三国に分割されてしまった。→ 現在のウクライナ西部にあたるガリツィア地方は、オーストリア・ハプスブルク領となる(後述)。


○ナショナリズムを輸出したナポレオン戦争

・ここまで、中世末期から近代初期までのヨーロッパの国際情勢をたどってみたが、この時期には民族問題やナショナリズムは存在しない。君主のもとで中央集権化は進んでも、領域内の住民の国家に対する帰属意識は希薄だ。→ つまり、ウェストファリア条約によって主権国家システムは成立したが、いまだに「国民」や「民族」と訳される近代的なネイションは生まれていない。(※この段階では、「国家」という意識を持っているのは支配階級だけ…)
・近代的なネイションは、1789年のフランス革命によって誕生した。…男性普通選挙を含む憲法の制定、徴兵制の実施など、領域内の住民が国家の政治に参加する権利を持つと同時に、住民自らが兵士となって国家を守る。→ フランス革命では、国家の主権が(国王ではなく)国民にあるという原則が打ち立てられた。…このように、国民(nation)と国家(state)が一体となった国家を「国民国家」(nation state)という。
・フランスで生まれた国民国家や自由の理念は、ナポレオン戦争によって、ヨーロッパ中に輸出されていく。…ナポレオンのヨーロッパ遠征の破壊力のすさまじさ。→ ナポレオン全盛期には、(ロシアを除く)ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に置く。…西南ドイツ諸国も支配下に置いたことで、1806年に神聖ローマ帝国も完全に消滅した。
・(世界史の教科書)…「封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革が促されたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。→ まず、スペインで反乱が起こり、またプロイセンでは、シュタイン・ハルデンベルクらが農民解放などの改革をおこなった。」
・ヨーロッパ諸国は、フランス国民軍の強さを目の当たりにした。…ドイツはいまだ多数の領邦国家が分立している状態。→ その中で、哲学者のフィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という演説を行い、ドイツ民族の一体化を訴えている。…ドイツに顕著なように、ナポレオンによって征服された国々では、民族意識や国民意識の覚醒を訴えるナショナリズムが発揚していく。


○19世紀から始まる中東欧の民族問題

・(中東欧の状況)…ナポレオン失脚後のウィーン体制では、(ロシア皇帝がポーランド王を兼ねることになったため)ポーランドは実質的にロシアの支配下に置かれた。…ハプスブルク朝のオーストリア帝国は、(現在のハンガリーを含む)当時最大の多民族国家(ドイツ人、マジャール人、チェコ人、ポーランド人、ルーマニア人、スロヴァキア人、ウクライナ人、セルビア人、マケドニア人など)。→ これらの民族が、19世紀のナショナリズムの中で、自治・独立を求める動きを強めていった。
・1848年、フランスの二月革命の影響はウィーンにも及び、帝国内のスラブ人やマジャール人(ハンガリー人)、イタリア人の民族運動が高まる。→ スラブ人は独立を求めて、プラハでスラブ民族会議を開いた。…ハンガリーは、1867年に自治を認められ、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。
・オスマントルコが支配していたバルカン半島でも、19世紀後半に大きな変化があり、「ヨーロッパの火薬庫」の様相を呈していく。…露土戦争(1877~78年)において、トルコは、南下政策をとるロシアに敗れ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロがトルコから独立。→ この敗戦で、トルコはバルカン半島の領土の大部分を失う。(※う~ん、ロシアとトルコの戦争の歴史は古い…。P107に第一次世界大戦前のヨーロッパの地図)
・1908年には、トルコで起きた革命の混乱に乗じて、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、ブルガリアがトルコから独立。←→ しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナにはスラブ民族であるセルビア人住民が多く、セルビアはこの併合に反発。(※う~ん、複雑…!)
・その後に起きるバルカン戦争が第一次世界大戦の火種となっていくが、その構図は、ロシアをリーダーとする汎スラブ主義と、ドイツ・オーストリアを中心とする汎ゲルマン主義との民族的な対立。―→ フランス革命以降に広がったナショナリズムが、中東欧において複雑な民族問題を構成し、第一次世界大戦の背景となっていった。…この流れを押さえておいてほしい。(※う~ん、この程度の世界史の流れを押さえておかないと、世界の中の日本の位置づけや、現代日本のナショナリズムについて、さらには今後の国家の行方を、展望することはできない、ということか…)



(2)ナショナリズム論の三銃士
  ――アンダーソン、ゲルナー、スミス


○三人の知的巨人

・中世末期から三十年戦争を経て第一次世界大戦にいたる流れから、現代を生きる私たちは何を汲み取るべきか。…そのための強力な武器が、ベネディクト・アンダーソン(代表作『想像の共同体』)、アーネスト・ゲルナー、アントニー・D・スミス、という三人のナショナリズム論。(詳細はP108~109)


○「想像の共同体」と道具主義

・ナショナリズムの問題を考えるときの、「原初主義」と「道具主義」という考え方がある。…原初主義とは、日本民族は2600年続いているとか、中国民族は5000年続いているといったような、民族には根拠となる源が具体的にある、という実体主義的な考え方。→ この場合の具体的な根拠として挙げられるのは、言語、血筋、地域、経済生活、宗教、文化的共通性といったもの。〔※日本の場合は、言語、血筋、宗教に加えて、最近では文化的な共通性(和食とか和製○○とか)を強調する傾向…?〕
・きわめて素朴な議論だが、ここには大きな問題がある。ex. ウクライナ人とロシア人……988年に導入されたロシア正教がロシア人のアイデンティティ形成にとって不可欠だったと言われているが、その年にキリスト教を受け入れたのは、現在のウクライナの首都キエフの大公だったウラジミール一世。→ そうすると、キエフなきロシアというのは考えられるのか。あるいは、ウクライナというのも、その意味ではロシア人ではないか、ということになる。→ 原初主義的発想では、すぐに袋小路に入ってしまう。
・それに対して道具主義は、民族はエリートたちによって創られる、という考え方。…つまり、国家のエリートの統治目的のために、道具としてナショナリズムを利用するのが、道具主義。(※近現代の日本のナショナリズムは、この〝道具主義〟の色合いが強い…?)
・この道具主義の代表的な論者が、アンダーソン。…国民というのはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体。→ つまり、日本の国民というのは、「自分たちは日本人なんだ」とイメージしている人たちの政治的共同体だ、ということ。…イメージだから、実体的な根拠はない。→ 国民意識というのは、自分たちは同じ民族だというイメージをみんなが共有することで成り立つものである、というのがアンダーソンの考え方。(※う~ん、「共同幻想論」と通底する考え方か…?)(※オリンピックなども、国民意識のための〝道具〟として使える…?→ 安倍政権がオリンピック招致に熱心だった理由…?)


○標準語はいかにつくられるのか

・では、どうすれば同じ民族というイメージが共有されるのか。→ アンダーソンが強調するのは、標準語の使用。……標準語というのは、自然に存在するものではない。…日常の話し言葉は、地域によって様々…現在の日本にも、地域ごとに方言がある。→ では、標準語はどのようにつくられていくのか。アンダーソンは「出版資本主義」の力だとする。
・書籍の出版は、初期の資本主義的企業であり、初期の出版市場は、もっぱらラテン語の読書人たちを対象としていた(ラテン語を読める人間は少数のエリートなので、市場としては旨味がない)。→ 16世紀前半、ルターの宗教改革の時代に、ルターがドイツ語で著作を書き、聖書のドイツ語訳を出版した。これが飛ぶように売れた(ルターは名の通った最初のベストセラー作家となった)。⇒ そして重要なことは、ルターのドイツ語訳の聖書が普及したことで、標準的なドイツ語を読み書きする空間が生み出されるようになった、ということ。
・話し言葉はあまりに多様なので、話し言葉ごとに本をつくっていたら、出版業はたいして儲からない。→ そのために、「出版用の言語」がつくられていくことになる。…それが国語や標準語というシステムになっていく(というのがアンダーソンの分析)。
・アンダーソンの考え方では、民族とは想像された政治的共同体、すなわち想像上の存在(※「幻想された共同体」?)。→ だから、小説や新聞が大きな役割を果たす。…ある小説を読む読者共同体ができる。→ そこに「われわれ」という共通認識が生じる。…「われわれ」を感じることができるような文学形態(ex. 小説)は、ナショナリズムと表裏一体の関係にある。
〔※う~ん、「出版用の言語」=国語、標準語 → その国語や標準語というシステムが、「われわれ」という共通認識を持てるような空間を生み出し、それに小説や新聞(現代ではネットも?)が大きな役割を果たし、それらは、ナショナリズムと表裏一体の関係にある、ということか…?…一定の説得力はあるが、ちょっと単純化しすぎる嫌いも…〕


○公定ナショナリズムとは何か

・アンダーソンの議論でもう一つ重要な概念に「公定ナショナリズム」というものがあり、ここに道具主義が絡んでくる。これは簡単に言うと「上からのナショナリズム」で、アンダーソンはその例として帝政ロシアを挙げている。
・ナポレオンの侵略後、国民国家やナショナリズムの理念がヨーロッパ諸国に広まっていったことはすでに触れたが ←→ こうしたフランス発の理念に対抗するため、ロシアは「正教、専制、国民性」というスローガンを掲げた。…この第三の原則「国民性」が、この時期に新しく加えられた。
・さらに19世紀末になると、アレクサンドル三世の治世のもと、ロシア語が、バルト海地方すべての学校の授業の言語として義務づけられる。…このように、支配者層や指導者層が、上から「国民」を創出しようとするのが公定ナショナリズムだが、それは王権の正統性を支える新たな道具になると同時に、「新たな危険を伴った」とアンダーソンは指摘している。
(※この構図は、明治以降の近代日本にも、そのまま当てはまるのでは…?)
・(「新たな危険」とは)…「国民性」をつくるということは、君主もまた国民の一人に数えられることになる。→ 従って君主は、国民の代表として、国民のために統治をしなければいけない。←→ 仮に、それに失敗すると、国民からは同胞に対する裏切り行為と糾弾されてしまう…そういう危険性があるわけだ。


○ゲルナーのハイライト

・次に紹介するゲルナーも、道具主義の代表的な論客。〔主著『民族とナショナリズム』〕…(ナショナリズムの思想があって、ナショナリズムの運動が生じるのではなく)ナショナリズムの運動があって、ナショナリズムの思想が生じる。→ その結果、「民族」「国民」と訳されるネイションが生まれてくる。…つまり、(民族が最初にあってナショナリズムが生まれるという原初主義的な通念は誤りで)ナショナリズムという運動から民族が生まれる(発見される)、というのがゲルナーの考え方。
・また、民族という感覚は(アンダーソンと同様に)近代とともに生まれたものとする。…ex. 日本の江戸時代でも薩摩と会津の人間は、同じ民族だという感覚は持っていなかった。
・『民族とナショナリズム』の中でとくに注目してほしいのは、ナショナリズムに対する誤った四つの見方の指摘。

①ナショナリズムは自然で自明であり、自己発生的である、という見方。
②ナショナリズムは観念の産物であり、やむを得ず生まれたため、ナショナリズムはなくても済ますことができる、という考え方。←→ ゲルナーは、ナショナリズムは近代特有の現象と認めながら、同時にそれを消去することはできない、と言っている。
③(マルクス主義者への皮肉)…マルクス主義者は、労働者階級に「目覚めよ」とメッセージを送ったのに、そのメッセージが民族に届いてしまったことについて、「宛先違い」だったと弁解する。…この見方は誤っている。→ なぜ民族に人々が動かされてしまうのかを考えなければいけない、ということ。(※う~ん、日本の戦後思想も、いまだにこの部分について、ほとんど決着がつけられていないのではないか…?)(※現在のフランスでも、庶民階層の多くが、国民戦線という右翼政党を支援しているらしい。…トッド『シャルリとは誰か?』より)
④ナショナリズムは、先祖の血や土地から「暗い力」が再び現れたものだという見方。…これは明白にナチズムを指している。←→ これもまた、ゲルナーは否定する。


○ナショナリズムが産業社会に生まれる理由

・なぜゲルナーはナショナリズムを近代特有の現象だと考えたのか。…それは、産業社会でないと、人々の文化的な同質性が生まれないから。
・産業社会になると、人々は身分から解放され、移動の自由を獲得するので、社会は流動化する(1章のイギリスの「囲い込み」参照)。→ 社会が流動化すると、見知らぬ者同士でコミュニケーションをする必要が出てくる。→ 普遍的な読み書き能力や計算能力といったスキルを身につけることが必須になる。→ 一定の教育を広範囲に実行するためには、国家が必要。…国家は社会の産業化とともに、教育制度を整え、領域内の言語も標準化する。→ こうした条件があって、広範囲の人々が文化的な同質性を感じることができるというわけだ。(※日本では、明治の文明開花期か…)
・こうして、産業化によって流動化した人々の中に生まれていく同質性が、ナショナリズムの苗床になる、というのがゲルナーのナショナリズム論。…1章で、資本主義社会の本質は「労働力の商品化」であるというマルクスの考えを紹介したが、ナショナリズムの形成にも労働力の商品化が大きくものを言ったのだ。
(※労働力の商品化 → 社会の産業化 → 読み書き・計算の能力の必要性 → 国家による教育制度の整備と言語の標準化 → 広範囲の人々に文化的な同質性 → ナショナリズムの形成…ということか。)


○「エトニ」という新たな視点

・アンダーソンもゲルナーも、民族やナショナリズムが近代的な現象であるという点では共通している。→(そして先述のとおり)知識人の間では、原初主義は素朴な議論として斥けられ、道具主義のほうが常識的な議論として受け取られている。←→ しかし、知識人の外側は違う。…知識人ならざる多くの近代人(※一般大衆?)には、民族がはるか昔から存在しているように感じられている。…いったい、それはなぜか。
・アントニー・D・スミスの画期的なナショナリズム論。…(アンダーソンの、民族とは「想像された政治的共同体」という考えに対して)スミスは、近代的なネイションを形成する「何か」がある、と考える。…それを表す概念が、現代フランス語の「エトニ」(古典ギリシア語の「エノトス」)…すなわち「共通の祖先・歴史・文化を持ち、ある特定の領域との結びつきを持ち、内部での連帯感を持つ、名前を持った人間集団」。…(※我々で言えば「日本人」「大和民族」か…)
・スミスによれば、近代的なネイションは、必ずエトニを持っている(エトニが存在しないところに、人為的に民族を創造することはできない)、ということ。←→ しかし、エトニを持つ集団が必ずネイション(国民、民族)を形成するわけではない。→ そのごく一部がネイションの形態を取るのであり、ネイションが自前の国家を持つことができる場合はさらに限られる。(※つまり「エトニ」は、「ネイション」や「自前の国家」になるための必要条件か…)
・このエトニという観念が、歴史と結びつくことによって、政治的な力が生まれる。→ この力によって、エトニは「民族」に転換する。(※う~ん、民族主義派が「歴史教育」を重視するわけか…)
・ここでいう「歴史」は、実証性が担保されている必要はない。つまり、史料にもとづいた客観的な歴史記述である必要はない。人々の感情に訴える、詩的で、道徳的で、共同体の統合に役立つ物語としての歴史(1章で述べた「ゲシヒテ」)。…これが民族形成に不可欠なのだ。→ 民族がはるか昔から存在しているように感じられる理由もここにある。
(※まさに、戦前の「歴史教育」であり、現在の安倍政権が目指すものも、これの〝平成版〟か…)


○三人のナショナリズム論の違い

・アンダーソンの論……(本人の意図とは離れて)「想像の共同体」は人為的につくられるというふうに読まれる傾向が強くある。…とりわけ日本ではそうだった。→ 近代的なネイションは操作可能だということになる。そう誤解される理由は、彼のナショナリズム論には、経済基盤(※マルクス主義的に言うと「下部構造」か)に対する観点が希薄なこと。つまり、イメージやシンボルがあれば、ネイションはつくることができる。→ こうした点ばかりが着目され、「国民国家などフィクションだ」という形で、国家を相対化することに焦点をしぼってアンダーソンの論は使われてしまったようだ(※主に左翼的な視点か…?)。
・ゲルナーの論……経済基盤への着目という点では、すっきりしている。→ 労働力の商品化ひいては産業化が、ナショナリズム誕生の必要条件と言っている。←→ しかし、産業化によって生まれたナショナリズムが、なぜ過去から連綿と続く民族的根拠があるようにイメージされるのか、そして、なぜ人々はナショナリズムに命を賭けるような行動を取るのか、という問いに答えることができない。(※この問いは、宗教問題とともに、現下の世界の最大の難問の一つか…)
・この点を説明しようとしたのがスミスだ。…つまり、ネイションにはエトニ(※共通の祖先・歴史・文化などを持つ、名前を持った集団)という「歴史的な」根拠があるということ。


○フスの物語

・三人の中で、スミスのナショナリズム論は、原初主義にもっとも近い議論。→ だからこそ、知識人の間では、アンダーソンやゲルナーの議論のほうが好まれる(※多くの左翼知識人も?)。←→ しかし私自身は、スミスの言う「エトニ」の概念は決定的に重要だと考える。(※このあたりが、この著者のユニークさであり優秀さか…)
・ネイションという言葉は、ラテン語の「ナチオ(natio)」。…中世の大学の中で出身地を同じくするサークルのことを意味する。…日本語なら、「郷土会」や「同郷団」。
・チェコの宗教改革者フス(ルターの宗教改革以前に活動)が学んだカレル大学には、ボヘミア、ザクセン、バイエルン、ポーランドという四つのナチオがあった。→ フスが参加したのは、ボヘミアのナチオ。…このナチオには、チェコ人、スロヴァキア人、南スラブ人、マジャール(ハンガリー)人がいて、ここだけがチェコ語を用いていた。
・このナチオが、15世紀のフス派の反乱によって政治的意味を持つようになった。…当時の教会の腐敗(三人の教皇による、贖宥状の販売や傭兵を使った戦争)を批判し、チェコ語の聖書をつくったのがフス。→ しかしフスは、異端の烙印を押され、1415年に火刑に処された。→ ボヘミアのフス派はこれに反抗し、1419年にフス戦争を起こす。→ カトリック軍に対して善戦するが、最終的には内部分裂を起こし、フス派内急進派は、穏健派とカトリックの連合軍に敗れた。
・このフス戦争を通じて、民族のアイデンティティとチェコ語という言語、フス派の宗教改革が結びついて、エトニすなわちネイションという考え方の基本が、カレル大学のボヘミアのナチオから出てきた。→ 近代になって、チェコ民族が成立したのは、チェコというエトニが中世に形成されていたから。…フスはそれを結晶化する役割を果たした。
・フス自身は、(自らを近代的なチェコ民族と思っていたわけではなく)…チェコという出身地やチェコ語という言語と結びついた自己意識があっただけだ。→ この自己意識が、フス戦争を通じて、チェコ人というエトニの輪郭を強力につくりあげた。→ このチェコ・エトニが、近代になってチェコ人が国家を形成する民族意識の母体になったのだ。
・チェコ民族の成立からわかることは、あらかじめエトニという要因があることで、民族ができあがるとは言えないということ。…エトニは、民族意識が生まれた後、「歴史的な」根拠として事後的に発見される(※「後づけ」「後知恵」?)。→ 発見するのは、文化エリート。…フスの物語をチェコ民族のエトニとして発見したのは、パラツキ―という文化エリートだった(後述)。
・その意味では、民族問題をつくっているのは常に文化エリートとも言える。…ex. 日本の場合でも、日本的なエトニというのは、本居宣長によって「漢意(からごころ)に非ざるもの」という形で、『源氏物語』や平安時代の中にあると読み込まれた。←→ しかし平安時代の人々に、本居宣長が言ったような「漢意に非ざるもの」という意識は、おそらくなかっただろう。(※日本のネイションの萌芽は、江戸時代にあった、ということか…?)
⇒ つまり、(エトニがあるからネイションができるのではなく)ネイションができるからエトニが(※事後的に)発見されるのだ。

〔※う~ん、このことは、これから数年、(〝憲法改正〟に向けて)日本の文化エリートが、どのような日本・エトニを新たに発見してくるのか、そして、日本人がどのエトニに同調していくのか、あるいはしないのか…非常に重要になってくると思われる。…とにかく日本人には、戦前・戦中に、大和・エトニに根こそぎもっていかれた、という〝前科〟があるのだから…。〝風化〟という問題は、震災や津波という自然災害だけではなく、戦争(原発も)という人災にも当てはまる問題だ。そして「70年」という年月は、それを風化させるのに十分すぎる時間だと思われる…〕



(3)ハプスブルク帝国と中央アジアの民族問題


○マジャール人の覚醒

・18世紀のオーストリア・ハプスブルク帝国内は、神聖ローマ帝国と同様、大小の領邦が分立し、非常に多くの民族を含んでいた。←→ 外では、プロイセンが強国として力をつけ、ハプスブルク帝国を脅かす存在になっていた。→ そこでハプスブルク帝国は、中央集権的な国家をつくるために、農奴解放、宗教寛容政策や教会改革など、「上からの近代化」をめざす。…その中で、帝国内の民族問題につながる影響を与えたのが、ドイツ語の公用語化政策だった。
・しかし、このドイツ語化政策は両刃の剣だった。→ 王朝が普遍的な帝国的言語としてドイツ語を押しつけようとすればするほど、ドイツ語を話す臣民に肩入れしているようにみなされ、それだけ他の臣民の反感を募らせた。←→ しかし、そうしなかった場合には(実際、王朝は他の言語、とりわけハンガリー人の言語に譲歩した)、それは結果的に帝国統一の推進にとって後退であったばかりか、今度はドイツ語を話す臣民が貶められたと感じることになった。(※う~ん、国家の統治にとっての、言語の扱いの難しさ…)
・このドイツ語化政策に、帝国内でもっとも反発したのがハンガリーのマジャール人だった。…ドイツ語が帝国の公用語になれば、(ドイツ語を話せない)マジャール人貴族たちは職にあぶれ、既得権益を失ってしまう。→ そこでマジャール人の支配階級は「上からのナショナリズム」を志向し、マジャール語の防衛に乗り出した。…つまり、一方では、ハンガリー地域内に公定ナショナリズムが生まれていく。
・他方で、ハンガリーでは民衆的ナショナリズムも育っていく。→ 識字率の上昇、マジャール語出版物の普及、自由主義的知識人の成長などによって、民衆的ナショナリズムが刺激され、(アンダーソンの言う)出版資本主義による「想像の共同体」の素地ができていった。
・両者のナショナリズムが最高潮に達するのが、1848年のウィーン三月革命。→ ハンガリーの議会は、封建的な貴族州議会を廃止し、責任内閣制を掲げたほか、農奴解放やマジャール語の公用化を宣言する。←→ しかし、翌49年、革命はロシア軍の援助を受けたオーストリア軍により鎮圧され、民族的自由は再び奪われる。(※う~ん、中東欧は複雑…)


○公定ナショナリズムと帝国主義

・ハンガリーのナショナリズムに見られる、公定ナショナリズムと民衆的ナショナリズムの相克は、その後も続いた。…1866年、オーストリアはプロイセンとの戦争(普墺戦争)に敗れ、ハンガリーの自治が認められた。→「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の成立(オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任するが、外交・軍事・財政以外は、ハンガリー独自の憲法、議会、政府を持つ)。…(※これも複雑!…詳細はP130~131)
・これは、帝国内のマジャール人以外の民族から見れば、一種のハンガリー優遇策。そのためハンガリー国内でも、他の民族からの自治を求める声が強まっていった。←→ それに対して、ハンガリー王国は「公定ナショナリズム」を突きつける。→ 国内でマジャール語化政策を打ち出し、他民族にマジャール語を強制していく。
・オーストリア=ハンガリー二重帝国は、第一次世界大戦に敗れる。→ その結果、オーストリアとハンガリーは分離し、1918年にハンガリーは独立。のみならず二重帝国は解体され、チェコスロヴァキア、ユーゴスラビアが独立、ハンガリー王国東部の地域はルーマニアが獲得。……アンダーソンは、公定ナショナリズムの本質を、民衆的ナショナリズムに対する権力集団の応戦だと言う。(※日本の民衆は、権力側の公定ナショナリズムにやられっぱなし…?)
・ハンガリーでは民衆的ナショナリズムが育つなか、自らの権益を守りたいマジャール人貴族たちの公定ナショナリズムによって、王国内の他民族にマジャール化を迫った。
⇒ 新・帝国主義の時代である現在も、帝国主義は公定ナショナリズムと親和性を持ちやすい。…その典型は、中国。
・現在の中国に見られるナショナリズムの高揚は、中国指導部にとって両義性を持っている。→ 中国指導部が公定ナショナリズムを巧みに操作し、共産主義イデオロギー(※実態は、支配者層の既得権益の擁護?)にもとづく権力の中枢を、民族の代表に転換することに成功するならば、ナショナリズムの高揚は体制を強化することになる。←→ それに対して、現在形成されつつある中華民族というナショナル・アイデンティティによって、「お前たちは我々の代表ではない」と共産党指導部が拒否されれば、高揚するナショナリズムは体制にとって危険なものになる。…近代的な民族が育ちつつある中華帝国をアナロジカルに分析する上で、公定ナショナリズムという概念は、非常に有用なのだ。

〔※日本を含めた中国の周辺国にとって、中国が脅威となるのは、(戦前の日本がそうであったように)中国の民衆的ナショナリズムが、中国指導部の公定ナショナリズムに巧みに操作・同調させられることによって、排外主義的なナショナリズムの高揚につながってしまうときだろう。そして最悪なのは、それに対抗する形で、日本の排外的なナショナリズムにも火がついてしまう、という事態だろう(そうなれば、過去の歴史が示すように、いちばん被害を被るのは、いつも民衆の側という結果になる)。→ これを防ぐためには、支配者層による上からの公定ナショナリズムと、生活的な基盤に根ざした民衆的ナショナリズムとを、意識的に峻別する視点・論理そして物語を獲得していく。→ そうすることで、他国の民衆の側とも協調・連帯して、共にそれぞれの支配者層と対峙していく、ということだろう…〕


○オーストリア・スラブ主義とパラツキー書簡

・次にチェコ民族を見てみる。…現在のチェコ共和国の中西部をボヘミアという(宗教改革者フスの出身地)。…ハプスブルク帝国の中では、最も工業化の進んだ地域で、新聞・雑誌を含めチェコ語の出版物も数多く刊行され、文化エリートが育ちやすかった。→ その中にあって、チェコ人は支配者階級であるドイツ人との対立を深め、民族意識を覚醒させていく。
・チェコのナショナリズムを見る上で重要なのは、オーストリア・スラブ主義の思想。1848年のウィーン三月革命によって、ボヘミア地域にも一定の自治が認められた。→(ハンガリーの場合は、ここからマジャール人の公定ナショナリズムが生まれていったが)、ボヘミアは違った。→ ボヘミアは、オーストリア帝国内にいるスラブ民族の連帯を主張するようになる。…これをオーストリア・スラブ主義という。
・オーストリア・スラブ主義を典型的に表すものに、「パラツキー書簡」がある(パラツキーは、チェコの歴史家・民族運動の指導者)。…1848年の革命によって、ドイツ連邦の各地でドイツ統一の運動が強まる。→ このときフランクフルト国民議会が開かれ、二つの立場に分かれる。…①オーストリアを中心にドイツを統一しようという大ドイツ主義。②オーストリアからは分かれて、プロイセン中心で統一しようとする小ドイツ主義。
・ボヘミアのパラツキーのもとにも、大ドイツ主義の代表の一人として参加要請があった。→ この参加要請を拒否した書簡が「パラツキー書簡」(チェコの民族運動を語る上では決定的に重要な資料)。(その要旨)…私はスラブ民族につながるチェコ人…チェコ民族は小さな民族だが、太古以来固有の民族性を持ったひとり立ちの民族だった。その支配者たちは古い時代からドイツの君主たちの連邦に加入してきたが、しかしチェコ民族は自分がドイツ民族に属するとは決して考えなかったし、またどんな時代にも他の民族からドイツ民族の一部と考えられたことはなかった。…つまりパラツキー書簡には、まず自分がチェコ民族であることが堂々と宣言されている…(詳細はP135)。


○「われわれはフスの民族だ」

・パラツキーはチェコ民族の父。→「われわれはフスの民族だ」というイメージを流布することによって、民族のアイデンティティを確立していく。→ そして宗教的にも、(ドイツのプロテスタンティズムではなく)チェコ土着であるフス派のプロテスタンティズムであるという物語をつくっていく。…つまり、パラツキーによって、フスの物語がエトニとして発見されていくわけだ。
・ただし、彼の主張は、(単純なチェコ民族独立主義ではなく)オーストリアからドイツを切り離し、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロベニア人などのスラブ系諸民族の連邦的な帝国にオーストリアを再編すべきというもの。…これがオーストリア・スラブ主義。→ 従って、同じスラブ民族であっても、「世界帝国」をめざすロシアとの連帯は拒絶する。また、ドイツはドイツでまとまればいいじゃないか、と考えている。←→ ただし、オーストリア帝国にはいっさい手を出してほしくない、と。(※う~ん、中東欧諸国の微妙な立ち位置…)
・こうしてパラツキーは、フランクフルト国民議会への出席要請をはねつけ、他方では、プラハでスラブ民族会議を開き、帝国内のスラブ民族の統合を掲げる。→ 以降、チェコの民族運動は、オーストリア・スラブ主義を基調に動いていく(とりわけ、スロヴァキア人との連邦を構想し、1918年に兄妹民族によるチェコスロヴァキア共和国を建設)。


○ムスリム・コミュニスト

・ここから中央アジアの歴史を見ていく…ナショナリズムが「人を殺す思想」として培養されていく姿がよくわかるから。
・帝政ロシア時代までの中央アジアは、国家が存在しない土地であり、「トルキスタン(トルコ系の人たちが住む土地)」と呼ばれていた。…当然、近代的な民族意識はない。
・遊牧民は、血縁にもとづく部族意識。…農耕民は、定住するオアシスを中心とする地縁意識。…そしてどちらもスンニ派ムスリム(イスラム教徒)という宗教意識を持っている。…言語は、トルコ系言語とペルシャ系言語であり、双方を話すバイリンガルも多い地域だった。
・1920~30年代、スターリンはトルキスタンに恣意的な分割線を引いていく。…おそらくそれは、ロシア革命がヨーロッパに波及しなかったことと関係している。
・マルクス主義の考え方によれば、資本主義が最も発達したところから革命が起きて、社会主義になっていくはず。←→ ところが、現実に革命が最初に起きたのは、後発資本主義国のロシアだった。→ 革命の指導部は、ロシア革命がやがて西欧に拡大していく、と考えたが、その予想は外れてしまった。
・ここで、スターリンとレーニンは見事な方向転換をする。→「万国のプロレタリアート、団結せよ」というスローガンに加えて、「万国の被抑圧民族、団結せよ」を並べるのだ。…本来、この二つは矛盾する。プロレタリアートの観点からすれば、民族には意味がない。…被抑圧民族の観点からすると、階級区別は意味を持たない。→ それを同居させてしまうところが、スターリンとレーニンの手腕。
・さらにレーニンは、潜在的な被抑圧民族として、中央アジアやコーカサスの少数民族に目をつける。→ そうして、ムスリム・コミュニストという概念をつくってしまう。…このムスリム・コミュニストに、中央アジアでプロレタリアート革命を実行してもらおうというのが、レーニンの魂胆だった。
(※こういう政治的策略は、後で高いツケが回ってくるのが歴史の常…)


○トルキスタンの分割

・レーニンのねらいは成功した、いや、成功しすぎた。→ トルキスタンのムスリムに力がつきすぎてしまい、次々とムスリム系の自治共和国が生まれていった。…このままでは、マルクス・レーニン主義まで危うくなってしまう。中央アジアに単一のイスラム国家が生まれてしまう。→ イスラム原理主義革命の拡大に危機感を募らせたのがスターリンだった。
・そこでスターリンは、1920~30年代に「上から」複数の民族をつくっていく。→ トルキスタンを、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、カザフスタンという五つの民族共和国に分割した(P140に地図)。(※う~ん、こういう成り立ちだったのか…)
・しかし、これらは上から人為的につくられた民族であるため、様々な矛盾が生じた(詳細はP141)。…このように中央アジアでは、1920~30年代に(ほとんど民族意識がないところで)「上から」民族がつくられた。…公定ナショナリズムの典型。
・その結果、どうなったか。→ ソ連崩壊後、中央アジア諸国では部族を中心とするエリート集団が権力を握り、他方で、経済的困窮からイスラム原理主義が拡大していく。(※経済的困窮は、イスラム原理主義が拡大していく最大の要素か…)
・ソ連時代にはそれなりに存在していた市民層も、伝統的な部族社会に吸収されるか、イスラムに対する帰属意識を強める方向に分解が進んだ。→ 1990年代のタジキスタン内戦のように国家が分裂し、民族ごとに国家がいくつも登場して、激しい殺し合いをするかたちで、民族意識が高まってしまう。…これは、ナショナリズムが「人を殺す思想」になってしまうことを端的に示している。
(※このタジキスタン内戦というのは、ほとんど記憶にないが、日本では報道されていたのだろうか…?)



(4)ウクライナ危機からスコットランド独立問題まで


○ウクライナ危機のプロセス

・以上をふまえて、現下の国際情勢について考えてみる。…2014年は、新・帝国主義の時代がいよいよ本格化してきたことを印象づける一年だった。…それを象徴しているのがウクライナ危機。→ この地では、ナショナリズムが文字どおり「人を殺す思想」となっている。
・(今回のウクライナ危機にいたる推移)…2010年2月に大統領に就任したヤヌコビッチは、親ロシア派だが、EUとの経済連携強化を進めていた。→ ところが、2013年11月に、その協定交渉を突然中止し、ロシアとの関係を強化する方針を表明。←→ これに反発する大規模なデモや反政府集会が連日続き、多数の死者も出たことで、事態は緊迫化。→ ヤヌコビッチ大統領が野党側に譲歩するも(大統領選の前倒し実施など)、反政府派のデモは収束せずに激化し、首都キエフを掌握。→ その後、ヤヌコビッチ大統領は行方不明となり、大統領代行による暫定政権が発足。→ このウクライナでの「革命」に続き、2014年3月には、ウクライナのクリミア自治共和国で住民投票が行われ、(ロシアへの)編入を要求。→ そしてロシアは、クリミア編入を決定。→ その後、4月以降は、ウクライナ東部を親ロシア派勢力が掌握し、分離独立を主張。←→ それに対し、新政権は治安部隊を投入したが、事態は混迷を深めたまま内戦状態に。→ ドネツク州、ルガンスク州を実効支配する親ロシア派と、ウクライナ中央政府の間で9月に停戦協定が結ばれたが、武力衝突が完全に収まったわけではない。


○ウクライナ情勢の本質は何か

・しかし、こうした現象面の事実だけを追っていても、ウクライナ問題の本質は何ひとつわからない。→ ウクライナ情勢を解く鍵は、ウクライナ人が持つ「複合アイデンティティ」にある。…ウクライナは、西部と東部・南部で歴史や民族意識が大きく異なるのだ。
・ウクライナ西部は、第二次世界大戦までは、ロシアによって一度も支配されたことがない土地で、強烈なウクライナ民族意識を持っている。宗教もユニエイト教会(ローマ教皇の指揮監督下)の信者が多数派。←→ これに対して、ウクライナ東部・南部はまったく違った歴史を持っている。…17世紀にはロシア帝国領に組み込まれ、ロシアと密接な関係を持った地域。ロシア語を日常的に話す住民が多数派。宗教もロシア正教。→ 従って、人々はそれほど強いウクライナ民族の自覚を持っているわけではない。(詳細はP144~147)
・今回のウクライナ政変で機関車の役割を果たしたのは、西部の民族主義者たち。…西ウクライナの民族主義には長い歴史がある。→ ソ連が崩壊していくプロセスの中で、西ウクライナを中心にウクライナ語の使用などを訴えた激しい民族解放運動が起きる。…その中心になったグループが、「西ウクライナ・ルフ」。
・彼らの基本的な考え方は、「ウクライナが独立した際には核兵器を保全しながら、大国としてロシアに対抗していく」という強硬なものだった。→ 今回のウクライナの反体制派の中心は、この西ウクライナグループだ。…彼らは、祖国をロシアから完全に切り離し、純粋なウクライナを構築したいという強い願望を持っている。……現在ウクライナで進行している「革命」の背景には、こうした歴史的・文化的な根深い対立構造があるのだ。→ 従って、西部と東部・南部では、ロシアに対する距離感もまったく異なる。…西部の民族主義者たちは、ロシアからの影響を排除し、EUとの連携強化を目論んでいる。←→ それに対して、東部・南部はロシアに強い親近感を示し、ウクライナからの分離独立にも肯定的な住民が多数いるのだ。
(※う~ん、複雑…! そして、このウクライナ問題は、今も解決の筋道が見えてこない…)


○アイルランド問題とのアナロジー

・ウクライナでの異なるナショナリズムの衝突をどのように考えればいいのか。→ アナロジー(類比)のモデルとして、(前章でも扱った教科書)『イギリスの歴史「帝国の衝撃」』を参照する。
・まず、イギリスとアイルランドの歴史的経緯……もともとアイルランドは大多数がカトリックだったが、スペインがイングランドを攻撃する拠点としてアイルランドを利用したため、イングランドはアイルランドを取り締まるようになり、後にはプロテスタントが入植するようになった。→ さらに17世紀には、イングランドの内戦で勝利したクロムウェルがアイルランドに侵攻、4万人のアイルランド人を農場から追い出し、それらの土地を自分の兵士に分け与えたという。→ 19世紀には、アイルランドはイギリスの正式な植民地となる。…19世紀半ばに襲った飢饉では、約100万人の餓死者がアイルランドに出たが、イギリス政府は冷淡な態度しか示さなかった。……こうした経緯の中で、アイルランドは断続的に抵抗を繰り返し、1922年、北部アイルランドはイギリスの一部として残留し、他のアイルランドはアイルランド自由国(49年にアイルランド共和国)として独立する。(※これも複雑…!)
・そして歴史教科書は、「アイルランド:なぜ人びとはアイルランドと大英帝国について異なる歴史を語るのか?」というタイトルの章で、二つの戦いについて説明されている。

①第一次世界大戦で、イギリス国王と大英帝国のために20万人以上のアイルランド人が兵士として従軍し、そのうちの3万人以上が戦死した。
②大戦中の1916年、アイルランドの首都ダブリンでアイルランドの一団が武装蜂起して(イースター蜂起)、独立アイルランド共和国樹立を宣言したのち、イギリス軍によって鎮圧された。

・つまり、一つの島に二つの異なる態度があった。

①フランスでイギリス国王と帝国のために戦い、死をも辞さないアイルランド人(イギリスの一員と感じている)。
②ダブリンで国王と帝国に対して、死ぬ気で戦いを挑んだアイルランド人(イギリスの支配から脱するべきと思っている)。

⇒ その上で読者に、歴史について自分の意見を述べよ、という課題を提示している。
(※う~ん、日本ではこんな教科書にお目にかかったことはない…詳細はP148~152)


○同質性が高いほどナショナリズムは暴発しやすい

・ウクライナ危機とアイルランド人の問題は、どのような点でアナロジーを構成できるか。……ナショナリズムの衝突を考える上で重要なことは、アイルランドとウクライナも、同質性が高い地域で殺し合いが起きた、ということ。…アイルランド人の中には、イギリス社会で中産階級に上昇する人もいた。→ 多くのアイルランド人は、複合的なアイデンティティの持ち主だと考えられる(同質性が高いなら、暴力的な衝突は起きにくい、と考えたくなるが、まったく逆なのだ)。⇒ ナショナリズムは、同質性が高いほど、その差異をめぐって、暴発しやすいのだ。
(※う~ん、政治党派も、宗教でも、その傾向ありか…?)
・ウクライナ人もロシア人も、同じ東スラブ人だから、同質性は比較的高いと言える。

①ロシアとの協調を求める東部・南部のウクライナ人。
②ロシアの影響を排除し、親欧米を掲げる西部のウクライナ人。

・ウクライナが独立したのは、ソ連が崩壊した1991年(およそ四半世紀前)→ そのため、40代以上のウクライナ人は、ソ連人として過ごした年数も長く、複合アイデンティティを持っている。←→ しかし彼らは今、自分たちがロシア人なのか、ウクライナ人なのか、アイデンティティの選択を迫られている。→ そして、そのアイデンティティの選択次第で、隣人と殺し合いをする状況が生まれてしまうのだ。……このように、アイルランドの歴史を参照すると、ウクライナ危機の構図は、同質性の高いナショナリズムの衝突という形で整理することができる。(※う~ん、ウクライナ危機の複雑さが少し分かってきたか…)


○スコットランド独立問題

・まったく同じ構図を、2014年9月に行われたスコットランド独立の是非を問う住民投票に見て取ることができる。……1707年の「連合法」によって、スコットランドはイングランドに併合された。…それまで、スコットランドは独立した王国だった。→ 民族の記憶は、300年程度では消えない。(P154にイギリスの地図)
・スコットランドの人々が恐れたのは、このまま人材も資源も流出し、ロンドンに吸い取られていく未来だ(人口530万人の自分たちで回していったほうが豊かになれる、という計算もあったかもしれない)。→ イングランドとの格差が広がり、独自の言語も廃れ、軍事負担も過剰に課せられている。…こんな問題提起が噴出し、民族意識に火がついた。
・幸いなことに、スコットランドでは殺し合いではなく、住民投票という形で、アイデンティティの選択が行われた。しかし、武力衝突の可能性がなかったわけではない。…仮に、スコットランドが独立を可決していたらどうか。→ イギリスは北海油田を失うことになり、イングランドがこれを認めることは断じてなかったはず。→ イングランド・スコットランド戦争、あるいはスコットランド内部のイングランド統合派とスコットランド独立派が衝突することになる。
・実際は、独立反対の票が上回り、スコットランドはイギリスに残留することになったが、これで一件落着と考えることはできない。……ギリシア語では「クロノス」と「カイロス」という二つの異なった時間概念が存在する。

①クロノス……日々、流れていく時間のこと。年表や時系列で表される時間。
②カイロス……ある出来事が起きる前と後では意味が異なってしまうような、クロノスを切断する時間。(※戦争とか今回の震災とかを内に取り込んだ時間概念、ということか…)

・スコットランドの住民投票では、イングランド人とスコットランド人では、カイロスが異なることが可視化された。…住民投票にあたり、イギリス政府だけでなく、国政レベルの与野党はすべて独立に反対して、スコットランドに「独立した場合、経済的に困窮することになる」と圧力をかけた。←→ このことに対して、多くのスコットランド人は、自分たちが差別されているという認識を抱いた。…つまり、スコットランド人にとっては、今回の住民投票が、過去の苦渋の記憶が蘇るようなカイロスになった。←→ しかし、イギリス人にその意識はなかったのだ。(※う~ん、この構図は、沖縄と本土との関係にアナロジーできるか…)
・おそらく、スコットランド独立派が、イギリスからの分離独立を諦める可能性はない。…数年後に再び、独立の是非を問う住民投票を提起する可能性は十分にある(詳細はP157)。


○「ぼんやりとした帝国」としてのイギリス

・イギリスは、ここまで述べてきた近代の国民国家の原理とは、少し異なるところがある。→(アンダーソンの言)…「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」という国名の中に、民族を示唆する言葉はどこにもない。…イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は民族名。しかし、グレートブリテン人、北アイルランド人という民族は存在しない。→ これが示唆するのは、この国では、王あるいは女王の名のもとに、民族を超える原理で人々が統合されてきたということ。…アイルランド問題やスコットランド問題も、このようなイギリス的統合のあり方が機能不全に陥りつつあることを示唆しているのかもしれない。(※そして今後、イギリスでは「EUからの離脱」を問う住民投票も控えているらしい…)
・ゲルナーもまた、イギリスの特殊性をこう表現している…「イギリスはぼんやりとしたまま帝国になった」。…イギリスの歴史教科書『帝国の衝撃』でも、インド支配をテーマとした章で、次のように問いかけている。…イギリス人の歴史家の多くは、イギリス人が最終的にインドを支配するようになったのは、偶然の結果であったと主張している。→ あなたはどう考えますか。イギリス人は単に「いつの間にか支配者になった者たち」だったのだろうか。それとも彼らは、自分たちの行為をきちんと理解していたのだろうか。
・イギリス政府がスコットランドの心情を理解せず、ぼんやりとしたまま「いつの間にか支配者になった」と考え続けるのであれば、スコットランドのナショナリズムは、今後もずっとくすぶり続けていくことになるだろう。


○スコットランドに自らを重ねる沖縄メディア

・このスコットランド独立運動に対して、日本のメディアの多くは、地域間の格差といったような「地域主義」の視点で報道していた。…これは、日本人記者の多くが、ロンドンの中央政府やイングランド人の世界観に立って、スコットランドを見てしまっている証拠だ。つまり、スコットランド独立運動が民族問題であることを軽視してしまっている。⇒ メディア報道のみならず、日本人は大民族なので、少数派の発想や感情を理解するのに不得手なところがある。
・それに対して、沖縄の報道は違った。…『琉球新報』の社説は、スコットランドの独立を問う住民投票を「世界史的に重要な意義がある」としている。…「冷戦終結以降、EUのように国を超える枠組みができる一方、地域の分離独立の動きも加速している。国家の機能の限界があらわになったと言える。もっと小さい単位の自己決定権確立がもはや無視できない国際的潮流になっているのだ。沖縄もこの経験に深く学び、自己決定権確立につなげたい。」
・沖縄人にとっては、スコットランドの住民投票は他人事とは思えない。…本土の人間と沖縄人とでは、同じ出来事が違う意味をもって受け取られている。→ つまり、イングランド人とスコットランド人と同様に、この両者でもカルロスが異なるのだ。
・スコットランドの住民投票からおよそ2ヵ月後、沖縄県知事選(2014.11.14)が行われ、翁長氏(前那覇市長)が当選した。…沖縄メディアは、県知事選を意識してスコットランドの住民投票を報じていたのだ。→ この選挙は、沖縄の自己決定権を主張する翁長候補と、すでに沖縄人は日本人に完全に同化したと考えている仲井眞前知事との間での、沖縄の自己決定権をめぐる住民投票の要素をあわせ持っていたから。
・その結果、翁長氏がおよそ10万票の差をつけて当選した。…これ以上の基地負担を拒否するという沖縄人の強い意志がこの背景にはある。


○ナショナリズムへの処方箋

・私は、ここ数年の間で、「エトニ」が沖縄の中で強化されていると見ている。→ もはや、沖縄(琉球)民族というネイション形成の初期段階に入っていると見たほうがいいかもしれない。←→ しかし、この現実が多くの日本人には見えていない。
・沖縄のエトニは、沖縄の地に自分たちのルーツがあるという自己意識を持つ人々と、沖縄の外部ではあるが、沖縄の共同体に自覚的に参加していく意思のある人々から形成されている。→ しかも基地問題、オスプレイの配備問題を通じて、沖縄人は、本土の沖縄に対する差別や無関心をますます強く自覚するようになってきている。
・「あなたがいったい何者であるのかを決定づける最大の要素の一つは、受け継がれてきた文化遺産、すなわちあなたの歴史にあります。しかし、異なる人びとが異なる観点から同じ出来事を見たときに、果たして歴史は同じものであり続けるでしょうか?」(『イギリスの歴史「帝国の衝撃」』)→ 一つの事実に複数の見方があるということを理解するようになると、思考の幅が広がる。→ そして、自分と異なるものの見方、考え方をする人がいても、そのことに対して感情的に反発することが少なくなるはずだ。…平たく言えば、「他人の気持ちになって考える」こと(※ナショナリズムの相対化?)が、ナショナリズムの時代には決定的に重要になってくる。(※内乱や戦争を起こさないために…)
・(この章で見たように)世界史の中でナショナリズムが高揚する時代は、帝国主義の時代と重なっている。…資本主義が発達して、グローバル化が進んだ末に、帝国主義の時代が訪れることは前章で説明した。→ 同時に、帝国主義の時代には、国内で大きな格差が生まれ、多くの人びとの精神が空洞化する。⇒ この空洞を埋め合わせる最強の思想がナショナリズムなのだ。
・新・帝国主義が進行する現在、ナショナリズムが再び息を吹き返している。…合理性だけでは割り切れないナショナリズムは、近現代人の宗教と言うことができるだろう。→ 宗教である以上、誰もが無意識であれナショナリズムを自らのうちに抱えている。…その暴走を阻止するために、私たちは歴史には複数の見方があることを学ばなければいけないのだ。

〔※う~ん、ナショナリズムは、近現代人の宗教か…。→ そしてそれは、私たちの〝精神の空洞〟を埋め合わせるようにしのび込む…。先日も、日本の若者が「イスラム国」に接触(?)しようとして、トルコで保護された、という事件があったが、この事例も、現代日本の若者の〝精神の空洞〟に、「イスラム国」がしのび込んできた、ということか…? → そして今後は、もっと多数の若者の〝精神の空洞〟に、日本の支配者層による「上から」の公定ナショナリズムが、様々な方策を駆使して、充てんされていく危険性…?〕

 (5/9…2章 了)            

〔今回のテーマは、民族主義(ナショナリズム)でした。次回(3章)は、最後の宗教を取り上げます。…それによって、現下の世界情勢を理解していくための、最低限の基礎的な知識を得ておこう、というのが当面のねらいです。〕

 (2016.5.9)
          

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