2014年7月22日火曜日

震災レポート 24

震災レポート 24

               中島暁夫


震災レポート・拡張編(4)―[農業論 ①]

2月に入って二度の記録的な大雪と、オリンピックの空騒ぎ、そして不気味な元軍人候補が出てきた都知事選…。その間、(傷みがひどくなったウサギ小屋の修繕と)縁の遠かった農業論と悪戦苦闘しているうちに、三回目の3・11が過ぎていった。…(今のところ「震災レポート」①~⑳の中で想定されていた以上のことは、良くも悪くも、おおむね何も起きていないように思われるので)今回から「農業論」に挑戦してみます。当方まったくの門外漢、いろいろ迷いましたが、とりあえず次の本を入口として始めてみることにしました。脱サラして新規就農した若手農業者の視点、ということになります。
 

『キレイゴトぬきの農業論』 
久松達央(たつおう) (新潮新書)

                              2013.9.20(2013.10.15 3刷)


〔著者は1970年生まれ。慶応大経済学部卒後、帝人(株)で輸出営業に従事。1999年、農業へ転身し、久松農園を設立。年間50品目以上の旬の有機野菜を栽培し、会員消費者と都内の飲食店に直接販売をしている。〕


                                       
【はじめに】――「キレイゴト」から離れて


・(著者の自己紹介)…茨城県土浦市(旧・新治村)で有機農業を営んでいる、脱サラ農業者。実家は農家ではない(祖父母が農家だった)。大学を卒業後、合成繊維メーカーで輸出営業を5年やった後、全くの畑違いの農業に転身。
・畑を借り、中古の耕運機を買い、少しずつ規模を広げて、現在は6名のスタッフとともに、3ヘクタール強の畑で年間50品目という多種類の野菜を露地(屋外)で育て、個人の消費者や飲食店に直接販売…農業者の中では変わった経営スタイル。←→ 普通の野菜農家は、数品目に絞ってまとまった量の野菜を育て、市場に出荷。
・僕の畑では、たくさんの種類の野菜が、一列ごとに植わっており、しかも次々とローテーションで変わっていく。…一般の家庭で食べられている野菜は大抵育てているので、自分の畑を「巨大な家庭菜園」と呼んでいる。
・有機農業というと、一般には「危険な農薬を使わない安全な農法」「環境にやさしいエコ農法」と捉えられているが、(本編で述べるように)それらは必ずしも事実ではない。僕自身も最初は、「環境や健康を破壊する危険な農薬を使わずに野菜をつくりたい!」という思いで始めたが、実践していくうちに「有機農業のキレイゴト」に疑問を感じるようになった。→ 残念ながら、それにきちんと答えてくれる人や書物がなかったので、畑で農作業をしながら、自分の頭と手で考えて、疑問への答えを言葉にしたのが本書。(※これが書名の由来か…)
・僕は農業に向いていない人間…並外れた体力も高い栽培技術もないし、まして「奇跡」を起こすことなどできない(※これは「奇跡のリンゴ」の木村さんのことだろう)。→ そんな僕でも、農業で食えているのはなぜか? その秘訣も本書で明らかにした。
・僕の野菜のコンセプトは「エロうま」。野菜というとヘルシーでやさしいイメージが先行するが、やみつきになる力強いウマさでお客さんを喜ばせたい、というのが僕の願い。
・農業は古くからある仕事だが、既存のやり方が全てではない。どんな人も必ず持っている、その人の強みや個性を素直に生かせば、オリジナリティーに富んだ面白い農業経営が可能。(※う~ん、「エロうま」かぁ。アラフォー世代らしい新しい感性に期待して、本編に入ろう…)


【1章】有機農業三つの神話


○三つの神話


・神話1…有機だから安全。神話2…有機だから美味しい。神話3…有機だから環境にいい。→ 著者も最初はそんな風に考えて、あこがれで有機農業を始めたが、実践を重ねるうちに、「ん? 思っていたのと違うぞ」という点がたくさん出てきた。


○「有機だから安全」のウソ


・かつての農薬の中には、人に対する毒性の強い物もあった。農薬使用中の農業者の中毒事故が多発していた時代もあった。また、当時の農薬には作物への残留性の高い物、土壌に残留して長い間残る物もあり、1960年代から70年代にかけて大きな社会問題にもなった(ex. 有吉佐和子の『複合汚染』)。―→ 社会の関心の高まりの中、残留性の高い農薬や毒性の強い農薬への規制が厳しく改正され、メーカーの農薬開発も毒性の弱い物、残留性の低い物へとシフトしていった。→ こうした流れを経て、現在の農薬の規制は、これ以上無理なくらいに安全に配慮されている。→ 農薬でも放射能でも、摂取する量をコントロールすれば、健康を害することはない。→「有機農産物だから安全」というのではなく、適正に農薬を使った普通の農産物と同程度に安全ということ。
〔※う~ん、この見解にはかなり違和感を感じる。最近の新聞報道(東京新聞2014.1.7、1.9)でも、日本は農薬大国で、1ヘクタール当りの農薬使用量は韓国に次いで二番目に多い、とのこと。残留基準も甘めで、EUが脳神経など人体への悪影響を懸念して(農薬メーカーは否定)、昨年から三種類のネオニコ系農薬を使用禁止にしたが、日本では対応が遅れているらしい…〕


○安全と安心は違う


・対で語られることの多い「安全・安心」だが、意味するところは全く違う。簡単に言えば、「安全」は客観的なもの、「安心」は主観的なもので、別な概念。だから、安全と安心は分けて考えなければならない。→ 農薬は適正に使用する限り、食べる人に危険を及ぼすことはまずない。農薬が「安全」なのは動かない科学的な事実(※?)。←→ しかし、それで「安心」しない人がたくさんいることもまた事実。
・著者自身は、農薬の安全性に疑いを持っていないが、自分では使っていない。後述する生き物への影響もあるが、主たる理由は「何となくいやだから」…「それは僕の好みや美学の問題であり、合理性を超えた部分」。→ なので、著者の有機農業は「食べる人の安全のための無農薬」では全くない、と言う。

〔※う~ん、「僕の好みや美学の問題」かぁ、さすがアラフォー世代、考え方が斬新…と思う反面、「安全」と「安心」を全く違う別の概念と無理に分けたり、「農薬が安全なのは動かない科学的な事実」とか言うのは、ちょっと無理筋の〝前のめり〟な表現(ほとんど「安全神話」?)という違和感を、ここでも感じざるを得ない。……というわけで、第1章の初めで早くも躓いてしまったが、著者の農園のある茨城県は福島県と隣接しており、原発事故後に大きな影響を受けた(6章で詳述)。従って、農薬(と放射能)のことを冒頭に持ってこざるを得なかったのではないか。そして、問題の当事者(生産者・販売者)としてのバイアスがどうしてもかかってしまっているのではないか。→ この「レポート」の趣旨からも、ここでこの問題について少しコメントしておきたい。〕                                

〔「震災レポート④」より〕
・放射線の健康への影響について、近藤誠医師(放射線科専門医)によれば、急性障害(数時間から数週間以内に生じる症状)については、「しきい値」(それを超えると初めて悪影響が出る線量)があるが、晩発性障害(数ヵ月以上経ってから現れる悪影響…がんや成人病、子どもの成長障害など…DNAが傷つき、遺伝子が変異することが原因)では、従来は100ミリシーベルト以下なら安全(100ミリシーベルトがしきい値)と言われていたが、2000年前後からは、広島・長崎の生存被爆者の継続調査や原発作業従事者(15ヵ国、40万人)の調査で、100ミリシーベルト/年以下の低線量被ばくでも晩発性障害が生じる可能性があること(しきい値なし → グレーゾーンがある)が証明された。…国際放射線防護委員会(ICRP)も、「データが足りないから安全だ」とは言えない道理だし、また「被曝者防護のためには、なるべく安全を図れるようなデータ解釈が望ましい」という観点から、この「しきい値なし」説を採用すると、20年以上も前に宣言している。
・以上の観点から、著者(久松)の農薬や放射能に関する認識は、あまりにナイーブすぎる(あるいは生産者・販売者としてのバイアスがかかっているのではないか)と言わざるを得ない。―→ 従って、農薬の健康被害についても、少なくとも現時点で妥当な見解というのは、「なるべく安全を図れるようなデータ解釈が望ましい」という観点からも、放射線の低線量被曝と同様に、「しきい値なし」説、すなわち低農薬でも健康に悪影響(晩発性障害)がないとは断言できない(グレーゾーンがある)ので、各人が正確な情報を得ることに努め、自身で対処方針を考えていくしかない、ということになるのではないか。(近藤医師の現時点での見解では、放射線の晩発性障害については、1~20ミリシーベルト/年、がグレーゾーンのよう…)
・つまり(「しきい値なし」なら)農薬も少ない方がいいし、少ないほど安全度も増すだろう。しかし、様々な事情でなかなかそうもいかないだろうから、各人がそれぞれの判断で、(グレーゾーンの中で)どこかで折り合いをつけていく…それが当面は妥当な在り方、ということになるのではないか…。
・ちなみに近藤医師は、その著書を次のように結んでいる。……「少しの被曝なら心配ない」という専門家の言葉を信じてよいのか。…原発推進派や電力会社がこれまで周到に用意してきた種々の仕掛けが、この緊急時にうまく働いている。…「低線量被曝は問題ない」と発言してくれる専門家を囲い込む。専門家がいる大学に巨額の研究費を流し込み、大学退職後は「原子力安全研究協会」などのポストで処遇する。…こうして少なからぬ数の専門家が、「100ミリシーベルト以下は安全だ」と言い出すと、それまでは中立だった専門家まで感化されてしまう。…いずれにしても、テレビ番組で準レギュラー的に登場して安心感を振りまく専門家には、信用できる人は一人もいないと考えておくのが「安全」だ。

〔※最近の報道でも、東大が中心となった白血病治療薬の臨床研究(副作用情報)で、製薬会社の社員が、研究の立案から実施、学会発表にまで関与していたことが発覚。「製薬会社丸抱えの研究。医師も各種サービスを期待し、受け入れていた」と批判された。新薬の販売促進も動機と指摘され、医師と製薬会社のもたれ合いの構図が示された(東京新聞2014.4.3)。…近藤医師によれば、こうした医師と製薬会社とのもたれ合いは、日本の医療業界では常態のことらしい…〕
・この原発問題(医療問題)の電力会社(製薬会社)に、そのまま(農薬や化学肥料製造の)製薬会社や化学会社(販売で儲けている農協も?)を当てはめれば、そのまま農業問題になってしまうのではないか。
……(以上、詳細は「震災レポート④」あるいは『放射線被ばく CT検査でがんになる』亜紀書房2011.7.7 …また6章でも「農薬と放射能」という項目があり、そこでも取り扱う。)                                      


○有機と味は別の話


・有機だから美味しい(神話2)とは限らない。→ 野菜の美味しさを決めているのは、圧倒的に栽培方法以外の要素。すなわち、栽培時期(旬)、品種、鮮度、の三要素。…この三つが十分に満たされていれば、誰でもある程度美味しい野菜が育てられる。逆に言えば、この三要素を満たしていなければ、どんなに農法にこだわっても美味しさにはつながらない。
・有機野菜が美味しいと言われるのは、有機農業をしている生産者が、結果的に美味しさの三要素を満たしていることが多いから。→ 収穫後の鮮度管理が悪かったり、味の良くない品種を使ったりすれば、栽培が有機であっても美味しくない。→ 逆に、この三要素を押さえて栽培すれば、慣行農法(農薬や肥料を用いる一般的な農法)でももちろん美味しくできる。
・著者の農法…①旬の時期のものしか作らない。②品種はもちろん、美味しさを中心に吟味。③鮮度をとても大切にしている(注文を受けてから必要な分だけを収穫…具体例はP22)


○環境はとても複雑なもの


・有機だから環境にいい(神話3)…これも一概に「イエス」とは言えず、ケースバイケース。
・ほとんどの農業者は、雑草対策として除草剤を使用。→ コメ作りで「農薬を減らす」というのは「除草剤を減らす」こと。(一例の「紙マルチ栽培」)…最初に田んぼを紙で覆ってしまい、そこに苗を植えていく。光が通らないので雑草は生えない。…しかしこの方法は、紙の製造工程で大量の二酸化炭素を出すため、「環境にいい」とは言いづらい。(※う~ん、この程度のことは、わざわざ環境問題を持ち出すほどのことか…?)


○そもそも有機農業とは何か


・著者の有機農業の定義…「生き物の仕組みを生かす農業」…自然の仕組みにできるだけ逆らわずに、生き物、特に土の微生物の力を生かすことを重視。…このような考え方は、ヨーロッパではビオ農法などと呼ばれている(アメリカではオーガニック)。…「有機」よりもビオ(bio=「生」「生命」)という言葉の方が、「生き物の仕組みを生かす」を率直に表現していてしっくりくる。(※この考え方は、リンゴの木村さんとほとんど同じ…)
・生き物は単独では生きられない。動物と植物、植物同士、植物と土の中の微生物はそれぞれ互いに影響し合い、共生している。…たとえば土壌微生物の中には、植物の根に棲み付き根から炭水化物をもらいながら、土壌から養分を取り込んで根に供給しているものがいる。弱肉強食の単純な力関係だけが自然の摂理ではない。無数の生き物が相互に作用しながら、複雑なネットワークを形成して生態系全体を強く豊かにしている。それぞれの生き物が持つ機能、それが全体で回るシステム、これらを積極的に生かそうというのが有機農業の考え方。
・土と植物の関係は、まだ分かっていないことも多いのだが、知れば知るほどそれがいかに上手にできているかに感心する。そのシステムの、単純なようで複雑、脆いようで強いさまに驚かされる。そうした生き物のしたたかさを利用しない手はない、というのが有機農業の基本的な考え方。(※このあたりが、この著者が一流企業を脱サラして農業を始め、本まで書くようになった経緯の、肝のところか…。そしてこのことは、福岡ハカセ(生物学)の「動的平衡」の世界とも通底しているように思われる……この項は異論なし!)


○無農薬は手段に過ぎない


・最近では植物工場や水耕栽培のような、栽培環境を徹底的にコントロールする技術も発達している。…こうした技術の背後には、生き物のシステムに逆らっても植物をコントロールできるという人間の〝自信〟を感じる(※驕り?)。←→(著者は)そんな自信はとてもないので、生き物の仕組みには喧嘩を挑まない。だから有機農業を選んでいる。
・ただ有機農業も植物工場も方法論の違いでしかない。…また、有機農業とは「農薬や化学肥料を使わない農業」と説明されるが、これは正確な記述ではない。農薬や化学肥料を使わないというのは、生き物の仕組みを生かすための一つの手段に過ぎない。→ 農薬や化学肥料を使わないこと自体には特に価値はないと考えているので、「目的としての有機農業」と「手段としての有機農業」の二つは、はっきり区別されるべき(詳細はP28~30)。〔※う~ん、この部分が当方には分かりにくいのは、「生き物の仕組みを生かす」ことと「農薬や化学肥料」とは矛盾しない、という「安全神話」の考えをこの著者がとっているからと思われる。では、この著者が「安全な農薬や化学肥料」を自分ではなぜ使わないかといえば、「何となくいやだから」「僕の好みや美学の問題であり、合理性を超えた部分」と、説明にならない説明をしている。しかし、農薬や化学肥料は、現在の科学的な知見でも、「生き物の仕組み」を壊す作用を持つ、という疑いが強いのではないのか。ただ、この件も医療や原子力と同様、既得権益や利害が複雑に絡んでいる問題なので、今後とも折に触れ取り上げていきたい…〕


○有機野菜は「健康」な野菜


・有機野菜は、安全な野菜ではなく、「健康な野菜」であるべき(※これも、安全と健康をことさら対立的に考える必要はないのでは…)。それは「その個体が生まれ持っている能力を最も発揮できている野菜」であり、栄養価も高く美味しい。
・作物を健康に育てるためには、畑の生き物を多様に保つのが近道。特に、土の中の微生物の数と種類を増やすことが、質の高い作物を安定して作ることに大きく寄与する。…先に述べた通り、生き物は相互に機能を果たしているので、農業生態系においても畑の生き物を増やすことは、生産力や病害虫に対する抵抗力を高める。(※「人体の生態系」も同様か…)
・著者が農薬を使わないのは、その生き物を殺したくないから。特に、土壌消毒と呼ばれる殺虫剤は、土の微生物を根絶やしにしてしまうので、許容できない。…それは倫理的とか環境保全の観点から駄目だというのではなく、力を借りるべき生き物を減らすのは、栽培者自身にとって合理的ではない、というのがその理由。実利的に考えるからこそ、農薬は使わないというのが、著者の立場。(※う~ん、実利的だし環境保全にもなる、と言えばいいのでは…)


○有機農業の「選別機能」


・有機農業には、「命の選別システム」というもう一つの特徴。…畑では弱い個体から病害虫にやられる。→ しかし、殺虫剤で虫を駆除すると(その弱い個体は)虫食いという症状を免れて出荷されてしまう。…つまり農薬を使うと、淘汰されるべき弱い株も生き残ってしまう。→ 逆に言えば、農薬を使わないことで、野菜たちをふるいにかけ、健康でない野菜が生き残ってしまうことを防げる。…あえて(無農薬という)厳しい環境に晒すことで健康でない物を淘汰させ、「健康な野菜」だけを選別する。これが有機農業の選別機能。
・美味しさの三要素(旬、品種、鮮度)に比べれば寄与率は少ないものの、有機野菜が美味しいと言われる理由には、この選別機能が影響していると考えている。…つまり農薬や化学肥料を使う栽培の場合、本来は「健康な」野菜にならない物を無理やり出荷まで持っていった物が混じってしまう可能性がある。←→ 有機だとそういう野菜は淘汰されるので、「健康な野菜」だけが出荷にまで辿り着ける。そうなれば平均で見た時に、有機の方が美味しい野菜が残っている確率は高くなる。(※その代り、有機栽培は出荷量が淘汰分だけ少なくなる? → 生産量が少なくなる、というのが有機栽培の問題点の一つという見解もある…)


【2章】野菜がまずくなっている?


○旬はなぜ消えたのか


・栽培技術、輸送技術、品種改良などが進んで、野菜の周年栽培が可能になった1980年代以降、スーパーに行けば季節を問わず、いろいろな種類の野菜が並び、野菜の〝旬〟を意識することは少なくなった。…ex. ほうれん草が店頭に並ばない月はない。露地栽培、ハウス栽培、水耕栽培など、いろいろな栽培手段がそれを支えている。さらに保冷輸送技術の発達によって、夏場でも高冷地や北海道で生産して物が流通するようになった。
・しかし、やはり夏場のほうれん草は美味しい物ではない。栽培技術や品種改良がめざましく発達しても、適した季節の物には味も栄養価も遠く及ばない。無理やり夏場に作るほうれん草は、著者に言わせれば「ほうれん草のようなもの」とのこと。(P40に、旬の時期に育てた久松農園のほうれん草と、ハウス栽培のほうれん草との比較写真。その違いは歴然…)
・旬以外の時期にも野菜が出回るようになったのには、生産者側の事情もある。…旬の野菜は一気に大量に流通するため価格が暴落しがち。→ 生産者としては、設備や資材を使って多少無理な作り方をしてでも、出荷量の少ない時期(旬を外した時期)に生産する方が収入の安定につながる。…ある意味、いかに旬を外して作るかが現代の生産者の腕の見せ所とも言える。やや乱暴に言えば、上手な農家ほど美味しくない物を作っている、という構造。
―→ 欲しい物が欲しい時に手に入るようになった利便性の対価として、年間を通じた味の平均点は下がっている。…これが日本の野菜の現状。(※う~ん、「利便性の飽くなき追及」は発展途上的な価値観で、「行き過ぎた利便性」の妥当な見直しが、成熟社会の課題の一つ、ということか…)
←→ 著者が作りたいのは(旬の時期にしか栽培しない)当たり前の「滋味のある野菜」。食べた人の体になるような、しみじみ美味しい野菜。(※ここは著者の農業をやるモチーフがよく表れているところか…)


○コンビニおでんの大根が煮崩れしない秘密


・同じ野菜にも品種がいろいろあり、特徴も違ってくるが、特にF1と呼ばれる交配種が主流になった最近では、野菜栽培の中で品種が果たす役割は非常に大きくなっている。
・農業者の競争環境が年々厳しくなる中(※TPPの成り行きによってはさらに厳しくなる?)、人件費の高い日本では栽培コストをどれだけ下げられるかが経営課題。→ 種を販売する種苗会社にも、生産現場のニーズに合わせた品種の開発が強く求められている。…病気に強い品種、形の良い品種、寒さや暑さに強い品種、収量の高い品種などなど。→ この状況では、味や食感という要素が犠牲になってしまうことも少なくない。
・(コンビニおでんの例)…セブン‐イレブンは年間で5500万個もの大根おでんを販売。使用される大根は実に1200万本。他社も合わせるとコンビニだけで約2000万本もの大根が使われている。→ このおでん用大根に求められるのは、煮崩れないこと、大きさ・断面が一定であること、青首大根のように緑色にならず、どこも白いことなど。…つまりおでん専用の大根品種がある。長時間の煮炊きに堪えるので、俗に「客待ち品種」などと呼ばれている。←→ しかし、煮崩れしないことを売りにしている大根が本当に美味しいだろうか?…著者が考える冬の大根の美味しさは、トロっと煮崩れるあの食感と甘さ。→ 著者がこの品種を自分のお客さん用に栽培することはない、という。
・一般の消費者向けの品種でも、店頭で目立つように緑色が濃く出る葉物や、萎れにくい代わりに硬いブロッコリーなど、味以外の特徴を前面に押し出した野菜が栽培されているケースが目立つ。…生産・流通の合理化の中で、美味しさや栄養価の高さという、本来は食べ物として最も重要な要素が、ないがしろにされている。(※まさに〝本末転倒〟の事態…これは農業だけではないのではないか…)
・栽培者にできるのは、その個体が持っている特徴を発揮できるようにコントロールすることだけ。栽培で品種を超えることはできない。→ 美味しい野菜を育てたいのなら、栽培が有機であるか否かよりも、品種の選択の方がはるかに重要。(※ここも、有機かつ品種の選択、と言えばいいのでは。この著者は、同業の有機農業者に何かいやな目にでもあわされたのか…?)


○野菜は生き物


・生鮮野菜の味に大きく影響するのが、収穫から食べるまでの日数と管理方法。…野菜は生き物 → 収穫後も呼吸や蒸散といった生命活動は続くので、蓄積された栄養分が消費され、時間が経てば味も必ず落ちる。…こうした生命活動に使われるエネルギーは、蓄えた糖を燃やすことで作り出されるので、時間の経過による甘さの落ち方は顕著。ex. トウモロコシや枝豆など、甘さが売りの野菜が鮮度にうるさいのはそのため。
・近年、冷蔵輸送技術や店頭の冷蔵ショーケースなどの発達で、野菜の流通はかつてないほど広域化・長時間化している。…ex. 春菊は萎れや劣化が早いため、かつては消費地から近い所でしか栽培されなかったが、今は北海道の物も東京に運ばれている。→ 途切れない保冷によって見た目はそれなりに保たれても、〝3日前の春菊〟であることに変わりはない。もちろん、味は落ちている。
・農業者が栽培方法にどんなにこだわっても、消費者の口に入るまでに時間がかかっては台無し。(ある有機農業者の例)…大手の有機農産物宅配サービス向けに真夏の小松菜の栽培を始めた。高温期の小松菜は生育がとても早いので、収穫適期は3~5日くらいしかない。→ 業者の要望に応えるために、ちょうどいい大きさでまとめて収穫してしまって、大きな冷蔵庫でごく低温で管理して、2週間以上にわたって出荷。…2週間冷蔵庫で寝かせた小松菜に、味も栄養もあるはずがない。最も重要な鮮度を犠牲にした有機栽培に、果たして意味があるのか?(※「エロうま」の野菜を最大の目的とする著者なら、こういう見解になるか…)
・著者の農園では、面倒だが少量ずつ生産し、注文を受けてから必要な量だけを収穫して発送している。…この点は、流通在庫を持たなければ成り立たない大手とは大きく異なる部分。(※小規模経営の農園にしかできない…?)


○採り時で味は激変する


・(野菜の収穫のタイミングについて、野菜の種類や状態によって様々に変わっていく様子が語られている。同じ野菜でも、どのタイミングで採るかで味は全然違う、とのこと。…詳細はP48~51)


○キヌサヤの出荷規格


・気になるのは、野菜の市場規格が美味しい時期より若採りサイドに傾いているケースが目立つこと。…市場での評価では、柔らかくて甘いことが良しとされ、品種の開発も採り時もどんどん若採りへと向かってしまう。ex. キヌサヤ、トウモロコシなど。…野菜の滋味とは、分かりやすい甘さではなく、噛むうちにじわじわと感じる深い味わいのこと。単調ではなく、甘みも苦味もえぐみもバランス良くある野菜。複雑な味のする物が美味しい物だと思う。
・しかし現実には、分かりやすい甘さ、柔らかさが一般受けする。そして、その傾向は年々強まっているように感じる。…八百屋の対面販売が少なくなり、売り場で食べ方の提案ができなくなったことも、その一因。(※現代の社会の風潮そのものか…)


【3章】虫や雑草とどう向き合うか


○野菜の自己防衛


・有機の野菜づくりの三つの敵…害虫と病気と雑草…野菜は常にこの三つのリスクに晒されている。
・基本的に野菜はほったらかしにすると死んでしまう弱い植物。…植物は動物と違い動けない。→ 逃げることができない代わりに、様々な方法で身を守っている。…「硬さ」や「棘」は代表的な防御法。中には独自の生体防御機能を発達させ、虫や細菌やウイルスから身を守っている植物もいる。→ 葉や茎に自己防衛のための毒や忌避物質を持っていたり、雑菌が体内に侵入しないような機構(※免疫機能?)を兼ね備えていたりする。…そうでなければ茎葉の弱い植物はあっという間に虫に食べられたり、菌に侵されて枯れてしまったりするだろう。
・こうした防衛機構を持たない弱い植物は、進化の過程で淘汰されてきたと考えられる。→ 厳しい自然界の中で生き延びている植物は、何らかの自衛手段を持っている。…より複雑な防衛機構の例としては、菌に感染した細胞とその周囲の細胞を自ら枯らして被害の拡大を防いだり(※確かこの実例を、木村さんがリンゴの木の葉で記述していた…)、揮発性のある成分を分泌して、虫の天敵を呼び寄せたりする(※敵の敵は味方か)、などのパターンもある。
・一方で、食べる側の虫もやられる一方ではない。毒を分解、解毒する能力を発達させた種もいる。→ 共進化といって、植物と虫は熾烈な争いを繰り広げながら生き延びるための進化を遂げてきた。(※ヒトとウイルスや細菌もまた…)


○野菜は植物としては奇形


・植物が外敵から身を守るために持っている防御機構は、人間に対しても毒になったり、良くない食感や味覚として働いたりすることも多い(※「自然」も毒になりうる、という理由か)。…ex.赤ワインなどに含まれるタンニンは、その代表的な物質 → 口にすると苦みや渋みを感じる(※柿の渋みもそうか…)
・「雑草」と呼ばれている植物の多くは、ヒトには食べられないか、食べても美味しくないもの。→ 食べにくいものが多い中、食べられる数少ないものを選び、長い年月をかけて栽培しやすく改良し、苦みやえぐみを少なく、やわらかく、大きくしたものが現在の「野菜」と呼ばれるもの。…品種改良によって、毒を作るエネルギーを栄養や食味成分の生産に振り向けさせているのが野菜。→ 当然、病害虫に対して非常に弱く、人間の保護なしでは生存し得ない。…「自然に育てれば野菜は病害虫にやられない」という人もいるが、そもそも野菜は自然なものではない(※工業製品でもないだろう…)。野菜は、人が手をかけなければ自然界では生きていけない、いわば植物の奇形。(※う~ん、一定の説得力はあるが…。過度な品種改良をせずに、土壌の生態系を豊かにして「健康な野菜」に育てれば、病害虫にも強くなるのでは…。要はバランスの問題ではないか…)


○「伝統野菜」のウソ


・原産地の問題もある。日本で食べられている野菜の大半は、もともと外国から持ち込まれたもの(P59に野菜の原産地の図)。料理の主役級の野菜で、日本原産のものは皆無。
・よく「伝統野菜を大切にしよう」と言われるが、持ち込まれた時期の差こそあれ、伝統野菜と言われているものも元々は外国の物。…暑い地域が原産地のものを夏野菜、寒い地域が原産地のものを冬野菜と勝手に呼んで日本で栽培しているが、元々は日本の気候に合わせて生まれていないものがほとんど。→ それを故郷から遠く離れた場所で改良し、人間の思惑に合わせて育てているのが栽培という行為。…どんな品種改良や栽培技術を駆使しても、もともと〝無理筋〟のものもある。
・ここを見ずして、どんな栽培方法がより〝自然〟であるかを語るのは全くのナンセンス。→ 逆に、日本原産のミョウガやジネンジョなどは、手を加えなくても栽培ができるものばかり。気候や土質に合っているので、無理なく育つ。(※この原産地のことは、木村さんも言及している。つまり「自然栽培」の中でも常識化しつつあるのでは…)


○防虫の実際


・慣行栽培では農薬を使って病害虫を防除するが、有機農業では基本的に農薬を使わないので、代わりにいろいろな工夫をする。→(P62に防虫ネットについて詳述)
・防虫ネットは、手で取るよりは簡便だが、農薬に比べれば手間やコストがかかる。つまり、野菜の虫害を無農薬で防げるかどうかは、物理的な方法の可否よりも、経営的にどこまで許容できるかで決まる。…巷では「無農薬で栽培できる」「いや、できない」という議論が繰り返されているが、それは不毛な論争。→ 実際には、どこまで守るためにどこまで手を入れるか、という費用対効果を考えた経営判断。(※農園経営者らしい、なかなかシビアな言…)


○その他の病害虫防除の技術


・コンパニオンプランツ(共栄作物)…種類の違う作物やハーブなどを近くに植えることで、互いの成長にプラスの効果を促す技術。…その他、害虫を捕食する天敵昆虫(天敵農薬として販売されている)を利用する、というものもある。…(詳細はP63~65)


○雑草対策には段取りが必要


・関東は雨が多く気温も高いため、すぐに雑草が生える。特に畑には肥料が入っているので雑草が旺盛に育つ。→ 慣行農業では除草剤という農薬を使うが(狙った種類の草が綺麗に枯れてくれるので大変便利)、土の微生物も殺してしまうので、有機農業では使わない。
・雑草対策の基本は、手や道具で抜くか、機械除草。→ 段取りやタイミングさえ間違えなければ、綺麗に草管理は可能。…「防草シート」は設置は面倒だが、一度敷いてしまえばシーズン中は草取りが不要。…〔以下、カバークロップ(被覆作物)や太陽熱マルチ殺草処理(久松農園で最も効果を上げている雑草対策)などが紹介されている…詳細はP66~68〕


○多様性が重要


・畑の生き物を多様に保つことが、作物を健康に育て、質の高い作物を安定して作るポイント。→ 土の中の微生物を含め、いろいろな生き物がいることが畑全体としての生産力が高まり、病害虫に対する抵抗力が高まるから。…ただし、ここで言う多様性の確保とは、あくまでも野菜の生産のためであって、いわゆる環境保全そのものが目的ではない。(※う~ん、ここも「環境にも良い」と言っておけばいいのに、このこだわりは何なのか…?)
・生物多様性の保護にはいろいろなレベルがあり、それによってルールは変わってくる。…一般的な白菜農家の畑には1種類の白菜だけが植えられているが、久松農園の畑には様々な種類の様々な品種の野菜が時期をずらして植えられている(P71に比較写真)。…1種類の作物しかなければ、その作物の好きな菌や虫だけしか住めない。←→ 作物の種類が多様であればそれに応じて、生き物の種類も増えていく。
・そもそも農業というのは、森を切り開き、自然を破壊して、そこに自分たちに都合のいい植物だけを育てている行為。畑は森林などの自然環境に比べると生物相が単調で、病害虫に対して脆い生態系。→ そのリスクを、農薬を使うことで回避するのか、他の工夫をするのかというのが、慣行農業と有機農業の基本的な考え方の違い。…農薬の使用は、その影響が目的の病害虫のみに留まれば話は別だが、複雑に張り巡らされた生物のネットワークを通じて生き物のバランスに影響を与え、結果的に畑の生産力を弱めてしまう危険性がある。(※これは納得…つまり農薬は、自然の生態系も畑の生産力も弱めてしまう…)
・畑に住む生き物の種類や数が増えることは、生態的な安定につながる。…白菜しかない畑では、白菜の病害虫が爆発的に発生してしまう危険性が高いのに対し、多品目栽培の畑では、一つの野菜に病気や虫が発生しても、それが全体に壊滅的にダメージをもたらすリスクは相対的に減る。(※これは「畜産」についても言えることなのではないか…?)
・輪作(ローテーション)という方法も取り入れている。…時期ごとに次々と違う作物を植えていき、科を変えていくことで、その作物にとりつく虫や病気が畑に定着するのを防いでいる。寄生主がいなければ、彼らはそこに住み続けることができないから。…作物は単独で存在するのではなく、その環境中の生き物と相互に関係を持ちながら生きている。→ 作物を変えるということは、その畑全体の環境を変えることでもある。
・多品目栽培も輪作も、生き物の多様性を確保するための手法で、狙うところは同じ。同時空間的にも、時系列的にもいろいろな物が次々に変化していくということが重要。…病害虫をコントロールしているというよりは、のらりくらり逃げ切るという感覚。(※なるほど…)


○ネットワークの頑健性がもたらすもの


・生態系の安定を決めるのは、そこに住む生き物の種類や数だけではない。系を構成する個々の生き物たちが互いにどういう関係にあるか、も関わってくる。→ 人間は自分の作物にメリット・デメリットをもたらす虫だけを見て、益虫・害虫という言い方をするが、実はそれ以外の虫、つまり作物に直接の影響はもたらさない虫(「ただの虫」)の方が、種類は圧倒的に多い。
・有機の畑と慣行の畑を比較すると、前者にはただの虫が多いことが観察されている。→ 農薬はただの虫を減らしてしまっているわけ。そして、このただの虫の存在がネットワーク全体には極めて重要。〔※う~ん、これは人体(の腸内細菌)と抗生剤との関係に似ている…〕
・(P75の図表「敵対関係と互いに利益を与える関係の比率」より)…敵対関係にある種類ばかりで構成されている系も、逆にお互いに利益をもたらす関係にある種類ばかりで構成されている系も、全体として安定しない。→ 多様性の確保が系全体の安定につながるというのは、農業生態系に限ったことではなく、人間の社会でも(※人体にも)想像がつくのではないか。…いろいろな関係性を持っていれば、一つの関係が切れても他で救われるということがある。→ 畑の生き物は人間に見えない部分で相互に複雑な関係を築いている。それが系全体としての頑健性を生んでいる。…しなやかでしたたかな生き物のネットワーク(※「動的平衡」?)を利用しない手はない。(※この項は、なかなか示唆に富む内容…)


○労働生産性の低い有機農業


・繰り返し述べているように、美味しい野菜を作る方法は一つではない。…例えば人為的に栽培環境を一定に保ち、作物の栽培をより繊細にコントロールする水耕栽培や植物工場も優れた農業技術だと思う。これから発達が期待される分野で、そこに関わる人はさらに増えていくだろう。(※う~ん、これには批判もあり、経営的にも失敗例が多いらしいが…)
・著者自身は、生き物の仕組みを利用する有機農業の技術は工夫に満ちた実に面白い試みだと思っている(※「自然栽培」をやっている人たちも、同様のことを言っている…)。→ 特に、そのローテクな部分に惹かれる。大量のエネルギーを使うのではなく、もともと生き物が持っている力を上手に利用するところに美しさを感じる。余計なものをそぎ落としたシンプルな機能美が好きなのだ。(※この震災以後、こうした「好みや美学」を持つようになった人たちが増えているのではないか…例えば、建築界にもそうした動きが出てきているよう…)
・〝露地での有機栽培〟などというのは、人為的なコントロールが最もしにくい手法。→ 「なぜ、そんな面倒なやり方を選ぶのか?」と、同業者に驚かれたこともある。…「しかし生き物を扱っている以上、最後のところは生命力を直接感じる環境の中で仕事をしたい、という思いがあります。地下足袋で土を踏みしめる感覚や、畑全面に色とりどりに広がる作物を吹き抜ける風の匂い。そういう身体的な感覚が、農業を続ける上で僕には重要な要素なのです。手触り感(tangibility)のある技術に美しさを感じるのが、僕の個性なのだと思います。」…(※う~ん、確かに美学かぁ…こういう若者たちが、未来に向かって少しずつでも増えていけば、日本もまだ捨てたもんじゃないか、という気もしてくるが…)
・もちろん、有機農業には弱点もある。…多品目での有機栽培は生物多様性の確保という点では優れているが、労働生産性は低くなる。←→ 少ない品目に特化した方が、作業性はよくなるし、機械化しやすいのは当たり前。
・有機農業は全体として労働集約型(要するに人手が必要)になりやすいので、慣行農業と比べて労働コストは高くなる。…有機栽培の野菜の値段が高い主な理由。→ そこに価値を見出してくれる消費者もいれば、「安さ」を求める消費者もいるだろう。これもまた、どちらが正しいというものでもない。現状においては、後者の方が主流だと思う(※当方宅も、主に経済的な理由で今のところは後者…)。→ だから、有機農業は「高い」商品を売っているにもかかわらず、必ずしも儲かるものにはなっていない。
・自分の中での価値は、市場価値とはイコールではない。農業者自身がそこにどんなロマンを見出そうとも、それに見合う市場価値を生み出さなければ経済的に自立しないのは当たり前。…有機農業は、経営的にはハードルが高いビジネスモデルだと言わざるを得ない。
〔※う~ん、クールな現状認識……当面は、有機農業や「里山資本主義」は(再生可能エネルギーも?)、少数派・サブシステムに留まらざるを得ない…?〕


【4章】小規模農家はゲリラ戦
〔枚数の関係で、この章は要点のみの紹介としたい〕


○消費者直販の有機農業という道


・通常の農家(市場出荷の野菜農家)は、決められた規格の野菜を、狙った時期にどれだけ生産できるかが勝負。…そこに特化して効率化できるのが強み。
・ 一方、直販型農業では、お客さんの要望に応じて栽培し届ける、というサイクルすべてに関与できるのが、直販の強み。…集中と効率化がしにくい分、問題解決の幅が広いのがメリット(ex.揃いが悪く収量も低いが味がいい野菜を、それを望むお客さんにピンポイントで届ける)。→ 購買層の多い市場ではなく、焦点を絞り込んだニッチ(すき間)戦略。…大手が面倒で手を出さないので、個人でも生き残る余地がある。


○大規模化だけでいいのか


・かつては、スタンダードな野菜がいつでも食卓に上がることが豊かだ、とされていた。そういう時代には、生産コストを極力下げて、安価でそこそこの野菜をいかに効率よく都会に「流す」かが産地に求められていた(※「発展途上」モデル?)。今後も、そのような需要は一定量は続くだろう。←→ しかし、低成長下(※総需要減)で基本的にモノが売れなくなった今、フツーの物はもう行き渡ってしまい、それでは飽き足りない人たちがたくさんいる(※「成熟社会」モデル、あるいは「二極分化・格差社会」モデル?)。
・(ex.小規模で特徴のある飲食店からの声)…「美味しくて鮮度のいい野菜や、変わった野菜、面白い野菜をちゃんとした値段で買いたいのに、入手する手段がない」→ 久松農園では、こうした要望に応えるための細かい芸当は、得意とする分野。…そういう珍しい野菜やネタを山ほど持っている。(※当方は、こういう店には高そうで入ったことはないが…)
・しかし、強いニーズがあって、きちんと組み立てれば経営も成り立つことが明らかなのに、それをしないのは農業界の怠慢。→ 大手業者から買う(安価でそこそこの)特徴のない野菜と、久松農園のような〝変態〟から買う野菜の中間がないという現状は、あまりにも寂しい。(※二極分化社会 → 中間層の衰退、も関係している…?)


○小規模有機農業者の生き残り戦略


・大手が正規軍だとすれば、小規模有機農業者はゲリラ。…規模の大きな経営体や大産地とは正面から戦わないやり方もある。→ ①安売りの土俵に乗らない…効率化を追求した栽培にコストで勝てるわけがない。消耗戦の末、大手に破れることは自明。…もう一つの理由は、自分たちの商品を支持してくれる(価値を分かってくれる)お客さんを探すため。
②引っかかりは多い方がいい…久松農園のお客さんの購買理由は、無農薬だから、宅配が便利、美味しさで支持など、いくつかの理由の組み合わせで買ってくれていると思う。→ 農産物に限らず、こういう「引っかかり」の多いのが強い商品だと信じている。…100に1人、1000人に1人にしか買ってもらえないニッチな商品だからこそ、たくさんの引っかかりを持って数多くのお客さんに投げかける必要がある。


○ITは小規模農家の味方


・インターネットは、小規模な経営体が低コストで情報発信するのに強力な武器。…2010年頃からソーシャルメディアが一気に花開いた。これは個人のネットでの情報発信力を大きく加速する動き。
・情報発信は情報収集でもある。…情報発信でより重要なのは、反響があること。ex. 新商品の発売や農園見学会の開催などを発信すると、様々な人から意見や感想をもらえる。→ その反応を見て、修正したりより力を入れたりできる。…このネットワークこそが、ちっぽけな個人事業者にとって最大の資産。…こういうことを可能にするツールが無料で手に入るのだから、つくづくいい時代になったと思う。→ 現在、一緒に仕事をしているスタッフのほとんどが、ネットで著者のことを知って応募した人たち。…取引先の飲食店の情報発信力もとても強いと感じている(別のお店を紹介してくれることも多くある)。


【5章】センスもガッツもなくていい
  〔この章も要点だけで…〕


・優れた農業者には、センスとガッツという二つの資質がある。…自分にはこの二つともないが、それは結果的に幸いだった。→ 明らかに適性がないので、自分を客観視し、言葉で考えて補ったり、非力な自分にもできる方法を工夫したりせざるを得なかったから。→ 道具や段取りを工夫することで、非力な人にも可能な方法を考えれば、それはどんな人にもスマートで無駄のないやり方(ユニバーサルデザイン)になるのではないか。→ そうした工夫の小さな積み重ねが、少しずつ生産性の向上につながり、「体力がなくたって農業はできる」と確信するようになった。
・農業のように自由度の高い仕事は、センスを要する。…実際、優れた農業者ほど教科書に沿った作り方はしていない。その組み立てを経験と勘で決めている。→ そのため、センスがあって上手な人ほど、そのノウハウは言語化・数値化されておらず、その人の中に属人的に存在していることが多い。…農家や農村の中では、こうした技は「背中」を通じてのみ伝えられてきたのだろう。
・しかし著者は、農家出身ではないので、多くの農業者が無意識の内に身につけている、ベースの身体感覚のようなものがない。→ だから、クワの使い方一つとっても、その技能を言葉で切り取り、自分の頭で組み立て直して、自分なりに理解し習得することが必要だった。
・やってみて分かったのは、農業技術といわれるものが想像していたより、ずいぶん整理されていないこと。…ある人の言う事と、別な人の言う事が180度違う、ということもしばしば。…ex.「じゃが芋の種の向き論争」…栽培の本では、「じゃが芋は種芋を切って、切り口を下に、芽が出る方を上にして植えると発芽が早い」と書いてある。→ 何年かその通りに植えてみて、他所でもこんな手間がかかることをしているんだろうか? と疑問が湧いた。→ 最終的には「植える向きを気にすることに意味はない」という結論に至った。→ 植え付けのスピードは格段に早くなり、発芽の揃いにもほとんど差が出なかった。(詳細はP140~141)
・このような例がたくさんあるのが「農業技術」→ 従って、既存のやり方に囚われず、論理的に合理的に考えることで、ずいぶん無駄が省ける。⇒ 職人の、特殊な世界だと思われている農業に、合理性を持ち込み、科学的・論理的なアプローチで栽培や経営を組み立てるのは、なかなか痛快な作業。…決して職人の勘や経験則を軽んじるわけではないが、もともと、分からないことや不確定要素が多い分野なのだから、合理性が通じるところまでは合理的に考えて、勘はその先で発揮した方がいいのではないか。
・「営農条件の悪さ」も工夫を促す要素。→ 困っているから工夫する。…その意味では、昔からの農家というのは、あまり困っていない人たち。(外から参入する立場からすれば)既存の農家はずいぶん恵まれた競争環境にあると言える。…家があり、土地があり、機械があり、ネットワークがあり、しかも現に生産のサイクルが回っている田畑があるのだから。→ そして農地という最も重要な生産手段が農地法によって、がっちり守られている。…制度によって農地や農家住宅の保有税や相続税は非常に低く抑えられている。農地維持コストは、宅地に比べてとても安い。→ その結果、多くの農家は都市住民と比べて住居費を大幅に節約することができる。…収益性の低い農業を続けていても食っていけてしまう大きな理由は、そこにある。
・この制度は農家を〝優遇〟しているようで、結果的には農業のイノベーションを妨げている。→ 農家の優遇制度は、新規参入者には参入障壁。…新たに入る者としては、その壁の中にいる人たちをうらやましく思うこともあるが、その壁の中で安住していたら、「新しいことを始めよう」という意欲も湧かないのではないか。(この問題は7章でも触れる…)


【6章】ホーシャノーがやってきた


○2011年3月11日


・東日本大震災に伴う原発事故で、茨城の農家も甚大な影響を被った。…著者自身も、3月後半だけで商売の3割を失った(廃業を覚悟するところまで追い込まれた)。
・地震当日は宅配野菜の配達に出ていた。著者はサラリーマン時代に大阪南部で阪神淡路大震災を経験しているが、比較にならないほど大きく長い揺れだった。…自宅には妻と生後1ヵ月の赤ん坊がいたので、心配で電話をかけたが携帯は不通。急いで自宅に戻ったが、信号は消え、道路にヒビが入っていた。
・幸い家族は無事で、家も大きな被害はなかった。停電していたのでカーラジオで全国の被害状況を聞き、大変なことが起きていることを知った。…電気は1日半で復旧、断水は1週間以上続いたので、使っていなかった古い井戸からポンプで汲み上げて水を確保。ガスはプロパンで、食べ物は売るほどあるので(笑い)、電気と水があれば生活はできる(※都市住民から見るとここが羨ましい)。…3日目からは育苗ハウスの苗に水をあげることもできた(春夏野菜の苗を枯らしてしまうのは死活問題)。苗に水をあげられて少しホッとした。…水の確保、インターネットでの情報収集、お客様への出荷お休みの連絡(宅配便が止まっていたので)などで4,5日が慌ただしく過ぎていった。ちなみに最後まで入手できなかったのはガソリンで、わずか10リットルですら購入できたのは3月末のことだった。


○キャンセルの山


・3月19日の夕方、枝野官房長官が、福島県に近い茨城県県北地域のほうれん草から暫定基準値を超える放射性物質が検出された、と発表。それを受けて茨城県知事が、茨城県全域に対して、安全が確認されるまでほうれん草の出荷・販売の自粛を要請した。―→ その日から、経験したことのない注文のキャンセルに見舞われた。…久松農園の野菜セットは定期購入制を取っているので、キャンセルは、1回分ではなく、その後ずっと買ってもらえないという意味。それだけに1件の解約の持つ意味は、とても大きい。
・知事発表から10日余りのうちに、金額ベースで3割に上る解約が発生。そのまま解約が続けば、4月末にはお客さんはいなくなってしまうペースだった。…13年間やってきたことは何だったのだろうか? と自信を失いかけた。(※原発事故の恐ろしさか…)


○当時の状況


・放射能騒動が起こってからは、頻繁に仲間の有機農業者と(スカイプやメーリングリスト、ツイッター上で)会議を持ち、情報の共有や対応策を話し合っていた(※う~ん、さすが新しい世代か…それとも当方が古すぎ…?)。
・一番苦しかったのは、判断材料がない中で対応を迫られたこと。著者自身も、ほとんど知らなかった放射性物質について必死で勉強した。しかし、自分の場所のデータがないので、判断のしようがない。→ とりあえず19日の出荷自粛要請を受けて、葉物野菜の出荷を取りやめた。すべてのお客さんに連絡を取り、根菜類と加工品の特別セットをお届けするか、お休みするかを選んでもらった。…(根菜類は問題ないと考えて)著者を信頼して「気にしないで送ってほしい」というお客さんがほとんどだったが、不安で野菜を敬遠される人もいた。
・毎日のように県の担当者に電話をかけて(放射能検査の)状況を聞いたが、不十分な情報しか得られなかった。→ 行政機関からの情報を待っていても仕方がないと思い、知り合いの生産者グループにお願いして自分の野菜の検査をすることができたのは、知事発表から2週間後の4月3日のこと。…情報が不十分な中では、消費者は特にリスク回避的な行動を取る(※これはある意味、当然な行動だろう…)。→ 経験したことのないペースでの解約で、出荷できない野菜が畑にたくさん残され、「この仕事を続けることは無理なのではないか」と絶望的な気持ちになった。…去っていくお客さんを引き止める有効な手段もないまま過ぎていく2週間は、つらく長い時間だった。

〔※このあと著者は、この間の県の対応について苦言を呈しているが、当時は日本全体が原発事故に関しては、「安全神話」の中で惰眠していて、原発の過酷事故に対する備えというものが、国レベルでも自治体レベルでもほとんどなかったと言っていい状況だったので、その意味では、当然の結果だったと思われる。――チェルノブイリ原発事故の後、世界は原発のシビアアクシデント(過酷事故)に備えて対策をとるようになったが、日本だけが、「日本の原発の格納容器は壊れない(ことにする)。従って放射能が外に漏れ出すことはない(ことにする)」、という(何の根拠もない)「格納容器安全神話」を変えようとしなかった(日本だけが30年遅れてしまった!)。→ 原発の安全設計は、国際水準では「五層の深層防護」だが(アメリカは第六層(立地)まで定めている)、日本のそれは三層の防護しかない。足りないのは、「シビアアクシデント対策」と「原子力防災」。→ その不幸な帰結が、今回の福島原発事故とその後の、恥さらしなていたらくであり、「壮大なグロテスク」…格納容器の破損にも、住民の避難にも、放射能汚染にも、国も自治体も東電も何の事前の備えもない、後手後手の場当たり的な対応しかできなかった。…(以上、詳細は「震災レポート⑳」または『原発難民』烏賀陽弘道 PHP新書)―― そして、それ以上に問題なのは、今回の原発の過酷事故が起こってしまった後、(3年が過ぎた現在でも)これを教訓にしてきちんとした対策が、国レベル・自治体レベルで、果たしてどれだけ構築されているのか? …福島原発事故がまるでなかったかのような安倍政権の新「エネルギー基本計画」、この国はいったいどうなっているのか…?〕


○農薬と放射能


〔※ここで著者は、政府が決めた食品中の放射性物質の暫定基準値について、科学的には相当に安全側に設定されたものであると述べている。そして、食品の健康リスクは、[毒性×一定期間に摂取する量]によって決まるとして、この点は第1章で述べた農薬の話と同じである、としている。→ そして、事故が発表されてから早い段階で、著者の野菜を食べる人への放射能リスクはほとんどない、という結論に至った、としている。←→ ところが、世間の反応は違った。想像以上に多くの人が怖がり、関東や東北の農産物や海産物が敬遠されるようになった。著者のお客さんの中にも、リスク回避的な行動を取る人の数は、予想を上回った、と述べている。……ここでも、農薬や放射能の安全性に対する判断に関して、著者はちょっと自信を持ち過ぎ(あるいは生産者・販売者としてのバイアスがかかっている)、と感じざるを得ない。→(1章でも触れたように)放射能についても農薬についても、人間への健康被害について断定的に決められるような基準というものは、現時点では設定できない(グレーゾーンが存在)のだから、現在の科学的な知見(調査・研究)の範囲内で、妥当な「グレーゾーン」を示した上で、あとは個人レベルで各人に判断してもらう(まあ、日本人はこれがきわめて苦手=お任せ民主主義、なのだろうが…)というのが、現時点での妥当な見解(落とし所)、ということではなかろうか…〕


○補償金では満たされない気持ち


・3月21日から原子力災害特別措置法の枠組みに移行し、安全でないものは市場に出回らないようにするために、生産者は出荷を自粛し、相応の補償を受けるという方針になった。
・市場出荷をしている農家は、補償されれば構わない、と考えているように思えたが、直販・小売をしている農業者は意見が違う。→ 直接の損失が補償されても、お客さんの信頼という資産が戻って来なければ経営の回復は見込めないから。
・しかし、商品の価値やお客さんの信頼という直接的な理由を超えて、「補償金をくれる」と聞いても満たされないモヤモヤがあった。……普段は、お客さんに尽くすのが仕事だの、経営合理性だの言っているのに、根本のところでは、ただ農作業が(楽しいので)したいだけだった。→ まずは自分がやりたくて、やっている。しかし、喜んでくれる相手がいないと成立しないので、自分と自分の野菜を支持してくれるお客さんを探している。もっと言えば、野菜を売る行為は、好きな事で生きていくための予算とステージの獲得手段でしかないのかもしれない(※これもキレイゴトぬきの農業論?)。…補償金をもらえると聞いても気持ちが満たされないのは、そのステージを失ったからだったのだろう。→ 結局補償金はもらわなかったが、自分が何を売っているのかを整理できたことは、大きな収穫だった。


○風評被害とは何か?


〔※この項でも、著者は、「第1章で述べたとおり、科学的には、食べる人への農薬の危険性は限りなくゼロに近いものです。ほとんどの農産物は残留農薬の基準をクリアしています」として、一部の有機農業者や流通団体が「農薬は危険なものなので、無農薬の野菜を!」とキャンペーンしていることに対して、これは慣行農産物に風評被害を与えていることにならないか、逆に言えば、安全性を理由に有機農産物を販売するのは、「風評利益」を受けていることにならないか? とまで批判している。…著者の言うように「農薬は安全」という前提に立てば、その批判は成り立つだろうが、「農薬の安全性には、今の段階ではグレーゾーンがある」という説に立てば、「少なくとも農薬を使っていない有機農産物は安全です」と謳っても、なんら批判されるいわれはないことになる(確かに「農薬は全て危険です!」と断定してしまうと、それはまずいだろうが…)。→ そして、どちらを選ぶかは(著者の言うように)消費者の自由であり、農薬を怖れて無農薬野菜を選択しても(著者の言うことに反して)非科学的でも非合理的でもないことになる。〕

(※少しくどい言い方になってしまったが、本書の中で最も違和感を覚えた部分であり、著者自身もかなりこだわって繰り返し言及していることなので、あえて疑問を呈した次第です。)


【7章】「新参者」の農業論


○農業を始めた経緯


・軽い気持ちで、自治体が主催する農業体験プログラムなどに参加する過程で偶然、有機農業と出会い、学生の頃から自分の中にあった環境問題への関心と農業が結びついてしまった。→ 不運にも(?)、気持ちにスイッチが入ってしまい、周りの意見も聞かずに農業をやる、と決めてしまった。


○農業は一人ではできない?


・就農地を探す過程で、受入れ先の行政機関や農家の人に言われて気になった事が二つあった。…「農業は一人ではできない。家族でするものだ」と「有機の人は要らない」。
・実際に、新規就農者の支援制度がある多くの受入れ自治体で、夫婦での就農が要件になっていた。…受入れ側にとって就農支援は定住化政策でもあるので、家族世帯を歓迎するのは当然。←→ だが、1人での就農(妻は別に仕事を持っている)を考えていた著者は、ずいぶん反発を覚えた。→ 今では、「家業」に偏重している日本の農業の実態を知るにつれ、「夫婦でないと」という考えが大勢になってしまうのも無理はないな、とは思うようになったが、参入する人の幅を狭めてしまうので、もちろん同意はできないが…。


○「有機の人は要らない」


・このことは九州の自治体の就農担当者から言われた。…「我々が欲しいのは趣味の農業者ではない。地域のリーダーとなるような、きちっとした経済農業ができる人だ。我が県ではあなたを受け入れることはできない」。
・その時に二つの疑問を感じた。一つ目は、既存のやり方で本当にいいのか、ということ。…「有機がダメなら、どういう農業ならいいのですか?」という著者の質問に対して、「産地として確立しているピーマンを栽培しなさい。技術指導も受けられる。低利で融資を受けて設備を建てることもできる。絶対安全だ」という答え。…絶対安全なら、どうしてピーマン農家の子どもが家業を継がないのか? 時代が移り変わっていくのに、大きな設備投資をして一つの品目を栽培し続けることが本当に「安全」なのか? 経営的には圧倒的に有利なはずの農業後継者が選択しないやり方を、よそから連れてきた素人に無理やり押し付けているのではないか? → この時から、行政の支援プログラムに乗ることには慎重になろう、と思った。(※ここらあたりが、この著者の優秀なところか…)


○有機は儲からない?


・もう一つの疑問は、有機農業は「きちっとした経済農業」になり得ない「趣味の農業」なのか、ということ。…確かに、そう言われても仕方のない面もある。→ 社会運動として始まった有機農業は、その理念を前面に打ち出し、既存の農業技術や農政を厳しく批判していた。現在でも一部の有機農業者の間には、お金の話をするのがはばかれるような反市場的な空気がある(※アラフォーの著者は「社会運動」にアレルギーのある世代か…?)。
・とはいえ、有機というだけで門前払いにするのもおかしなことだ、と感じていた。→ 時代の趨勢は間違いなく環境保全性や食べ物の安全性を重視する方向に向かっているのだから、ビジネスとしては追い風だ、という思いがあったから。…確かに有機農業運動にも問題はある。けれども、今のままの農業に将来性はあるの? と疑問に思った。
・この件を通じて学んだのは、自分がやろうとしていることは行政が支援してくれない、ということ。→ 冷たい対応をされてはじめて、自分が進む道は世の大勢とは違う、いわば祝福されない道だということを知った。…おかげで、自分では「いいこと」だと思っていた有機農業への、農業関係者からの風当たりを肌で感じることができた。また、自分の好きな事を経済的に成り立たせるにはどうすればいいのかを、少しずつ考えるようになった。←→ 支援制度を使って他人に言われるがままの農業をしていたら、今日まで生き延びることはできなかったかもしれない。
・そもそも組織の成り立ち(※既存の法令・規則の順守)から言って行政は新しいことが苦手。→ これから始めようという人には、公的な支援をアテにしすぎて、時代を見誤ることのないよう注意して欲しい。


○趣味の菜園は農業ではない


・潜在的に農業をやりたいという人は以前より増えているが、中には、趣味としての家庭菜園と職業としての農業の区別がつかないまま就農してしまう人もいる。→ 暮らしが立ち行かなくなり、すべてを放り出して夜逃げのように去ってしまう不幸なケースもある。
・野菜にしても花にしても、植物を育てるのは素直に面白い行為。加えて、腕の良し悪しが結果を大きく左右するとなれば、面白くないはずがない。←→ 一方で、生業としての農業の面白さは、家庭菜園のそれとは別次元のもの。…ものづくりの面で言えば、合理性や効率性を考えてプロセスを工夫する楽しみ、また販売面では、どのようにお客さんを喜ばして対価を得るか、という面白さがある。…これらは、仕事をして採算を取る、という制約があるからこその面白み。
・都会人が描く「農」のイメージを実現しつつ「業」を成り立たせるのは、難しいこと。…「理想の暮らしができるなら、ギリギリ食っていければいい」という意見は多いが、実はそれこそが難しい。経済農業もできない人に農的な暮らしは無理だ、と思う(詳細はP175~178)。

〔※う~ん、なかなか手厳しい…。最近のテレビ報道で、都会から週末に通えるような所に、年契約で割と安く「菜園付き別荘」を賃貸するビジネスが紹介されていた。まだ体を動かせる間に十分「趣味としての家庭菜園」を楽しめる(いつでも止められる)という商品。…こうしたものが需要に応じていろいろ出てくれば、著者が心配するような「趣味」と「業」の混同は、(少なくとも中高年に限っては)少なくなっていくのではないか…?〕


○補助金は就農を助けるか


・(10年以内の新規就農者にとったあるアンケートの結果)…「就農者全体の約4割が10年以内に農業を続けられなくなっている。←→ 一般の起業で言えば、新規設立会社の倒産率は1年で5割、5年で8割と言われている。…それに比べれば新規就農者は健闘している方だ、とも読める。実際に周りを眺めても、半分が1年でやめているようには思えない。
・「歩留り」が比較的高い一番の理由は、農業が他の事業に比べて参入しにくく、就農までたどり着ける率が低いから。つまり入口で選別がかかり、参入する人が絞られているということ。→ その分、参入者の母数が絞られ、結果的に歩留りが上がっている、と思われる。
・著者自身は、ふるい(参入障壁)が取り払われ、今より多くの人が農業にチャレンジすることが望ましいと考えているが、それは同時に、成功率が下がることを意味する。→ 参入者が増えただけマーケットが拡大するとは思えないし、パイの奪い合いも起きる。競争の激化と脱落者の増加は避けられない。→ いい人材を発掘するためには、それは受け入れざるを得ないことであり、ふるいは新規参入者だけではなく、農業者全体にかけられるべき。そのことで、人の「入れ替え」が起きるべき。
・農業活性化の鍵は生産手段の流動化、すなわち人と土地がもっと自由に動くこと。←→ 人と土地が適正に配分されていないせいで、できて当然のことができていない。逆に言えば、農業の生産性は、もっと上がる余地がある。
・現在、政府は新規就農者を増やそうとしているが、その施策は入口のふるいの目を粗くすること。ex.「青年就農給付金制度」…土地利用の規制も今のまま、農家の既得権も今のままで、新規に参入する人の前にぶら下げる人参(給付金)だけを大きく見せて、うまくいくのだろうか? → 安易にお金を出すことは、いい人材の発掘につながらない(お金目当てを増やす)ばかりか、多くの人に時間とお金を浪費させるだけだ。(詳細はP181)


○貧農で弱い農家像がもたらすもの


・日本の販売農家は約200万戸だが、そのうちの7%でしかない販売額1000万円以上の農家の売上が全生産額の6割を占めている。…こうしたプロの農業者の多くは、「先祖代々の土地を守り、食糧自給の使命を帯びて農的な暮らしを続ける貧しい農家」ではない。→ 普通のマインドを持った社会人であり、さらに言えば、多くの場合は農地法に守られた資産家。…社会的弱者ではありえない。
・間違った農家像を持つことは、人々に現実を見誤らせる。→「かわいそうな農家」を支援するための税制の優遇措置が、農業生産に寄与していない「名ばかり農家」の資産形成を助ける一方、やる気のある農業者の規模拡大や新規参入を阻害することもある。…これは、都市化に伴って、農地が不動産としての価値を持ってしまう局面において日本中で起きていること。
・農林水産関係には、毎年2兆円を超す膨大な予算がついている。→ 無駄なお金もたくさん使われ、そこに多くの役人や政治家や土木業者がぶら下がっている(※利権のトライアングル)。→ 多くの人が「かわいそうな農家」像を持つことは、農業が弱い産業であり続けることで利益を得ている人たちを結果的に支えている、ということを忘れないで欲しい。


○閉鎖性は非合理的か?


・「農村の閉鎖性」…農村社会は閉鎖的・排他的で住みにくい、と言われる。→ 著者は祖父が住んでいた(就農時点ですでに死去)地域で農業を始めたので、嫌がらせを受けるようなことはなかったが、それでも田舎の息苦しさを感じることはある。…皆が知り合い、という息苦しさ。
・都会で集合住宅に住んでいた時は、隣に誰が住んでいるかも知らなかった。…匿名性・埋没性が保たれる快適さがあった。人の中に埋没できる自由は都会生活の特権と言ってもいい。←→ これに対し、人口が少ない田舎では、コミュニティは基本的に顔見知りの人たちで構成されていることが多い。→ いつでも誰とでも楽しく挨拶できる人はともかく、そうでない人には住みにくいかもしれない(※当方などは当然こっちか)。…人間関係はどこにいてもある程度煩わしいものだし、顔見知りが多い田舎のほうが、むしろ大変という面は明らかにある。
・ただし、田舎の持つ閉鎖性にはいい面もあって、外部からの侵入者に対するセキュリティーシステムとして強力に機能。…また、公的な手続きでも、役場も農協の人たちも顔見知りだから、正規のルートでの手続きよりも私的なネットワークで仕事を進めた方が速い場合すらある。→ 外から入った著者から見て、最初は排他的なコネ社会に思えたが、いったん中に入ってしまえば、確かにスムーズで便利なところもある。
・ただし、時代の変化と共に状況は変わり、農村コミュニティの拘束力は年々弱まっている。…(著者の住んでいる地域では)農村地帯とはいえ農業専業で食べている人はどんどん減っている(お年寄りが少しだけ田畑を耕し、子供の代は勤めに出ている家が増えている)。→ こうなると、コミュニティの内向きなしがらみは弱まる。…一見強固に見える田舎の共同体も、地域の産業構造の変化に伴って変容する。


○ムラ社会は農村独特のもの?


・社会学で言うムラ社会の特徴…・ボスと子分の上下関係が歴然と存在する。・掟や価値観が絶対で、少数派や多様性の存在自体を認めない。・出る杭は打たれる。強い同調圧力。・排他主義に基づく強い仲間意識。・構成員は陰口を好む。・共有意識が強く、プライベートやプライバシーといった概念がない。・事なかれ主義……しかし、これは農村に限らず、会社や学校などで、どこにでも見られる現象ではないか?(※「原子力ムラ」や「医療ムラ」にも…)
・終身雇用・年功序列を基本とした日本型経営が、近年なぜ崩れてきたのか…その形態が低成長の経済循環やグローバルな競争に対応できなくなったから。→ 農業もまた、ムラの共同体を前提とした古い形態からの脱却が迫られている。…農業が今後もビジネスとして成立する「産業」であるためには、この点は必ず考えていかねばならない視点になるのではないか。


○変わらないのは困っていないから


・農業者が変われない一番の理由は、やはりお金に困っていないからだと思う。すでに述べたように、農家は「持てる者」なのだ。…農地法のおかげで固定資産税・相続税・贈与税等が大幅に免除され、親の家・土地を無傷で引き継いで生活を続けられる(都市生活者は生涯収入の1/4を住居費に取られている)。→ 新規参入組から見ると、アイデア一つでいくらでも面白い農業ができる羨ましい営農環境。
・しかしこのような経営・生活環境では、リスクを取って新しいことに挑戦する意欲が生まれにくいのは当たり前。→ 既存の路線を踏襲する個々の農家は、むしろ経済的に合理的な行動を取っていると言える。新しいことにチャレンジする方向にインセンティブ(経済的誘引)が働いていないから。「水は低きに流れる」…好んで苦しい道を行きたい人はいない。→ 水の流れを決める水路のデザインが間違っている。(※確かに制度・システムの問題が大きい…というより、そもそも農政のグランドデザインがない…?)


○人的ネットワークの狭さも一因


・新しいことに目が向かないもう一つの理由は、人間関係の狭さにあると思う。…フツーの農業後継者は、交友関係は幼馴染や消防団関係など地元に密着したものになるし、仕事での付き合いは農業後継者組織や地域の生産者同士が中心になる。
・このパターンの弱点は、お手本となる人が既存のシステム内で上位の人物、つまり過去の成功者に偏りやすい点。→ 構造的に、新しい事や変わった事にチャレンジしにくい仕組み。…子供の頃から知っている人間関係の中で、親や地域の篤農家に頭を押さえつけられて、ユニークで大胆な発想ができるものだろうか?
・高度成長期のように、何をやっても結果がついてきた時代は、どの産業でも現状維持のためのシステムが求められた。今の農業の仕組みも、当時は盤石だったのかもしれない。←→ しかし低成長下(※総需要減)で、既存の農業が競争力を失っている今、必要なのは全く新しい発想を積極的に取り入れること。…その意味では、引き継ぐという後継者のやり方そのものが、有利なようで足枷になっている側面があるように思える。→ たとえ周りの人間に叩かれても、そのシステムの外にまだ見ぬ真の支持者がいる、という考えを信じて壁を突破していく人が必要。…そういうチャレンジをしている人たちを励まし、後押しすることが、今の農業にはできていない。


○新規就農者は職人志向?


・農業をしたい人の多くは、野菜づくり米づくりなど生産の仕事がしたい人。…しかし農業経営を続けていくためには、営業、経理、企画など様々な仕事をこなさなければならない。…職人気質は素敵なものだが、それだけでは経営は回らない。
・経営的な視点を持つ農業者が少ないというのは、家業偏重の日本の農業の大きな弊害の一つ。…規模拡大を勧めるわけではないが、展開型の農業経営体が極端に少ないのは産業構造として、やはりいびつ。→ 経済が停滞する中で、中高年の料理人が行き場を失っているという。…農業者も同様に、栽培技術があるというだけでは生き残れない時代に入ってきている。


○戦法は自分で考える


・安倍政権は「攻めの農業」を推進する、と盛んに言っているが、何をどう攻めるか、その戦法は農業者自身が考えること。←→ 政治の仕事は、自由で公正な競争環境を整えることであって、戦い方にまで口出しをするのは余計なお世話というもの(※この意気やよしか…)。まして、所得補償政策など百害あって一利もない。どこの世界に、足腰を鍛えるために甘やかす人がいるだろうか。…国民も、農業と農業政策をもっと厳しい目で見て欲しいと思う。
・繰り返し述べてきたように、鍵は人と土地の流動化。→ ガチガチに守られた規制を緩和し、自由な競争環境を確保すれば、新規参入や新しい取り組みが増え、農業は全体としてもっと強くなる。特に、多様な人材の確保が大事。…今のように過去の成功者の後継者しか入れない状況では、人材の幅が限られる。→ 圧倒的に人材が不足しているのだから、既存の枠組みを改め、新しいタイプの人を入れる以外に手はない。…著者の就農時のエピソードのように、行政の担当者が想定している枠から漏れている人がたくさんいる。


○こんなに面白い仕事はない


・現在の久松農園の農場長は女性。フラワー業界、料理教室の先生を経てウチに就職した変わり種。…小柄で非力な女性で、将来独立志望でもなく、農業のキャリアがわずか1年半の彼女が生産部門のリーダーとして活躍している。→ 彼女の存在、久松農園のやり方そのものが、農業界の既成概念がいかにアテにならないかを端的に示しているのではないか。…「こんな面白い仕事なのに、どうしてみんなやらないんだろう?」…農場長のセリフです。
・農業の面白さとは…著者が感じる最大の魅力は、その自由度の高さ。…結果さえ出せれば、どんなやり方をしても構わないし、既存のやり方に縛られる必要もない。――周りの農家の農作業を見ていて、夫婦の分担が気になることがある。ex. 男性が田植え機に乗って、女性が苗を運んで補充したり、植え終わった苗箱を洗ったり、という役割分担をしているが、合理的じゃないと思う。→ 機械操作は力を必要としないのだから、相対的に非力な女性が機械操作に回って、体力を使う仕事に男性を当てた方が効率的だと思う。→ ちなみに、久松農園の芋掘りは、一番小柄な女性がトラクターに乗り、男たちが後ろで芋を拾っていく。…地味だが、こういう小さな合理化の積み重ねが全体の生産性を向上させる。
・そもそも、人が働く喜びはどこから来るのか…著者は「工夫」だと言う。…決められたことをこなすだけの仕事には工夫の余地がない。→ 主体的に取り組むからこそ、工夫ができる。…工夫するということは、仕事と真剣に向き合い、持っているものを全部出すということ。→ 工夫の多い仕事には自ずと、その人の個性が表れる。〔※う~ん,これはある意味で理想形なのだろうが、なかなか難しいことでもある。…「仕事は(自分のキャパの)6割ぐらいでいいのでは…」と言う人もいたが、それにも現実的な(既存のシステムに対する自己防衛的)リアリティを感じてしまうが…。まあ、それは「既存の労働」と「あるべき労働」との違い、とも言えるが…〕
・農業は工程が多い仕事。一つの作物だけ見ても、作付の計画から畑の準備、種蒔き、収穫、片付けにいたるまで多くの工程があり、有機的につながっている。…ここをこうすれば収穫作業が速くなるんじゃないか、こうすれば雑草が生えにくくなるんじゃないか。試行錯誤の繰り返し。発想自体に問題があることもあれば、アイデアは正しくても技能が足りずに実現しない事もある。一つひとつの工程の改善に頭も体もフルに使う。→ 工程が多いということは、それだけ工夫の余地が多いということ。その意味で、農業は個性を発揮する場面が多い仕事なのだ。(※確かにこれは「あるべき労働」のイメージか…)
・「僕はビジネスの成功を、規模やお金で測れるとは思っていません。多くの人のイメージに反するかもしれませんが、農業はやる価値があり、やっていて面白く、お金にもなる仕事です。誰もやっていない、新しい仕事で僕たちスタッフが充実した日々を過ごし、お客さんを満足させ、事業がきちんと継続していくことが僕の定義する成功です。まだまだ課題はたくさんあります。しかし、僕たちが進んでいる方向は間違っていない、と思います。」…「これほどクリエイティブで知的興奮に満ちた仕事はそうありません。僕の話を聞いて、日本中のあちこちで面白い農業をする人が増えたら、農業は大きく変わる、と確信しています。」……(※このことは、「里山資本主義」の林業にも、そのまま言えることと思われる…)
(4/14 了)        


〔今回は、「脱サラして新規就農した若手農業者の視点」からの農業論でしたが、次回は、日本の農業全般を俯瞰して、その「正しい絶望法」を説く、超辛口の農業論を予定しています。〕 
(2014年4月14日)               

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